革の魔力はどこからくるか

「皮なめし」という業種をご存じだろうか。動物の皮をはがし、原皮と呼ばれる毛が生えたままの厚い皮膚を加工して、半永久的につかえる革に変える仕事だ。

肉を食べたあとには皮が残る。その皮は、そのままにしておくと腐ってしまうので、埋めるか焼却しなければならない。だが、それを再利用し、革という恒久的に流通する製品にするのが、皮なめしの仕事だ。すぐにダメになってしまう生物(なまもの)が恒久的な物と化すことで、靴やベルト、衣類などの素材に変身する工程ができるようになる。どんなに上手な革細工職人でも皮の状態では加工ができない。革になってはじめて手がだせる。いってみれば皮なめしが、革関連産業の基礎をつくっている。

ところが皮なめしは、多くの文化のなかで卑しい仕事とされてきた。皮なめしに従事する人々に触れただけで穢れるとされ、インドや日本のようにケガレという宗教的な概念によって特定のカースト集団に縛りつけて「アンタッチャブル」(不可触民)にしていた極端な例もある。このような差別は欧州にも存在していて、今でもその差別意識が完全になくなったわけではない。英国のノースハンプトン大学で皮革デザインを教える女性は「世界の一流企業から皮革デザインを専攻した学生をぜひ送ってほしいといつも頼まれる。だけど専攻する学生の数が少ないから要望に全然応じきれていない」とため息をつく。「革」というと若い学生たちはためらってしまう。服飾やアクセサリーのデザイナー志望なら腐るほどいるというのに。

革は日常生活における必需品でもあった。どこの村やまちでもつくられていた。そもそも小動物の皮なめしは、かつては農民も農閑期におこなっていた仕事だったのだ。しかし、大量に革が必要な時代になると、皮なめしは専門化してゆく。それにともない、原皮を扱う専門のなめし業は卑しい仕事とみなされるようになっていく。ところがひとたび原皮が皮なめし人の手で革に加工されると、途端に重要な軍需品や贅沢品へと生まれ変わる。皮革加工の専門職人が活躍し、革製品を取り扱う商人たちが大きな利益を得てゆく。

そんな製品のもとを生みだす皮なめし人が、なぜ長い間差別される低い地位に甘んじなければならなかったのだろうか。

その理由は、皮なめし人の仕事の内容にあった。彼らの職場は、悪臭と戦いながら屍から皮を取り出す過酷なものだ。動物の生体を解体してゆく過程では、つねに臭気や汚れにまみれなければならない。毛抜きを促進するために使う酵素には、犬の尿や動物の脳を腐らせた脳漿などが用いられもしてきた。酷寒の冬に冷たい川の中で皮を洗い、何十キロもの重さの原皮を担ぐ。

ドイツでは、一八世紀にいたるまで皮剥ぎや皮なめしは流れ者や移民労働者たちが従事する仕事とされてきた。それらは不名誉な仕事として、罪びととはいえ人の命を奪うことになる死刑執行人と同列に扱われていた時期もあった。

そうはいっても皮なめし人は、土地に縛り付けられた貧農などとは異なり、ある程度の経済的自立をえることが可能だった。革は、つくりさえすれば儲けが見込める高価な品物だったからだ。しかも、重労働というだけではなく、専門知識も必要だった。

社会の本音と建て前は違っていることが多い。皮なめし業も例外ではない。ユダヤ教の経典『タルムード』では、皮なめし人を卑しい仕事と蔑み、彼らに関わってはならないとした。人々が口にする肉を提供する肉屋は立派な仕事だが、皮なめし業はそうではないと『タルムード』はいう。新鮮な肉ではなく、屍(しかばね)を扱うからだ。しかし、皮肉なことにユダヤ人の皮なめし職人は多かった。専門知識と経験があれば、どこの都市にいっても生活が成り立ったし、親方になれば裕福にもなった。初期のキリスト教徒のなかにも皮なめし人がいた。キリストの聖使徒として有名なペテロがよく泊まっていたのは、皮なめし人のシモンの家だ。なめしに便利なように海の近くに住むシモンには、つつましいながらも使徒をもてなせるだけの経済的余裕があったわけだ。

日本では皮なめしは皮(かわ)田(た)と呼ばれる人々が担っていた。皮田は、近世を通じて卑賤な仕事とされ、一般町民との通婚を禁じられてはいた。しかし、革工芸品は、鎖国中の日本からもオランダなどを通じて輸出され、「ジャポニスム」の流れにのって高額で取引された。皮や革製品は幕府や藩の専売になり、扱う商人は特権を享受していた。明治時代に開国した日本が外貨を稼ぐのにも、皮革は一役買っていた。

一八七六年のフィラデルフィアと一九〇〇年のパリ万博に、日本の代表的な工芸品のひとつとして皮革製品が出品された。雪のように白く美しいのに、驚くほど強靭でしなやかな日本の革は、「Japanese White Leather」と称され絶賛された。プラスチック製品がない時代には、工業用ベルトや船着き場の荷揚げ用のロープにもつかわれたくらい実用的だった。他方その美しさから、バッキンガム宮殿の衛兵のベルトにもつかわれた。Japanese White Leatherは、一体どのようにしてつくられたのか。欧米から専門研究者が派遣され、英語やドイツ語で何本も論文が書かれたくらいだ。

一方、欧州では中世の終わりとともに、なめし人の技術力が認められ、地位も上昇してゆく。近代化の波に乗って、かつては卑しいとされていた職種が多くの専門職へと成長し、地位を高めていった。公衆浴場で怪しげな治療をしていた「床屋」は「外科医」となる。皮剥ぎ人と通婚し「卑賤な」地位にあった「死刑執行人」は絞首刑の廃止とともに臓器に関する知識を利用して「薬剤師」や「医師」になってゆく。「皮剥ぎ人」は毛皮で莫大な利益をあげ、「毛皮のトレーダー」や「大商人」となった。皮なめしの親方のなかには、皮革工場経営者となり企業家になる人物もでてきた。欧州ならば高い値がつく日本の白革をつくりあげた人々を卑賤視するなど、思いもよらなかったはずだ。

しかし、革は今でもアンビバレントな存在でありつづけている。高級品としてもてはやされる一方で、いまだに卑下され、忌避されることもある。そんな革の二面性、両義性は、現代においてどのような意味をもっているのだろうか。

その二面性、両義性を本書では、皮革がもつ「魔性」として考察してみたい。この「魔性」という視点から開けてくるのは、ブランディングという過程である。革製品の舞台はいまやグローバルファッションの世界なのだ。大きな技術革新がおこりつつある二十一世紀の世界では従来の産業システムの崩壊が進行している。限りある自然を大事にし、環境との共生をはかる産業構造へと社会が変化しはじめている。皮革を含めたグローバルファッションの世界ではどのような意識の変化がおこっているのだろうか。

ファッション界の高級ブランドにとって皮革製品は不可欠なシンボルであり続けているが、その高級皮革製品のブランドパワーをささえている「ブランド力」とはいったいなんなのだろうか。ポストコロナ時代をみすえ、ブランディングとラグジュアリー産業について考えてみたいことだ。

>>> 革のみちとはなにか