革のみちとはなにか

ギルドとマイノリティ集団によって守られてきた革の道

ファッションショーには皮革製品も重要な小物として登場する。ハンドバッグや靴、ベルトなど形態は様々だが衣類を売るグローバルなファッションメーカーはいずれも皮革類を高額商品にして利ザヤを稼いでいるからだ。だがワンクリックで購入が容易になった時代とはいえ、革は人とのふれあいを重視する。実際に手で触れてその感触をためしてみなければならない。「手間をとる」こと自体が革の高級品としての価値をあげているから服や帽子と違って実際に展示場や店に足を運ぶことは重要だ。イタリア皮革協会が世界中をかけまわってバイヤーたちのための展示に明け暮れるのも理解できる。

 革は貴重品で保存状態さえよければ半永久的に長持ちする。革は高額で販路はたくさんあった。軍需品やぜいたく品、日常品として使い方は無限だったからだ。古来から皮革を運搬し販売するルートは維持され続けてきた。「革の道」は拡張を重ね、今でもつかわれているネットワークだ。その革をつくりあげた職人や遠方に運んだ商人たちはそれぞれの職種によって「ギルド」に所属していた。だがその組織に加入できずにマイノリティ集団として自律的に仕事をしてきた人々もいる。ユダヤ系やムスリム集団、客家たちは、親族や家族組織を動員して革ビジネスを遠隔地に広げ、成功をおさめた。ギルド集団であれマイノリティ集団であれ、皮革ビジネスを長く続けてゆく事でステイタスを上げ、利益を長期間にわたって得てきた人々だ。

英国の革をささえるギルド

英国でもギルドによって皮革職人の技術は維持されてきた。英国の皮革産業自体は斜陽産業だとはいえ、英国製の皮革製品はいまでも「高級品」の一角を占め続けている。有名な皮革ブランドではエッティンガーやグレンロイヤル、ホワイトコックスがあり、蜜蠟を塗ったブライドルレザーは耐久性に優れた高級皮革として世界に知られた存在だ。

 現在英国内には13の皮革関連ギルドが財団として残っている。ギルドとして直接革づくりに関与することはないが、皮革関連の教育やチャリティ事業に資金を提供している慈善団体で会員の親睦組織だ。今日のラグジュアリーブランドのイメージの多くが高級皮革製品に象徴されているように、高級皮革製品には特権的な超富裕層のイメージが強い。

 だが革づくりをささえてきた数々の職人たちのなかでも特に皮をなめしていた人々はむしろ社会の周縁に属する集団だった。欧州社会で疎外されていたユダヤ人集団の多くは定住先でもギルドへの加入を認められていなかった。彼らが自由にはいり、むしろ自分達の手でギルドをたてることができたのは皮革関連のギルドが未発達なところに限られていた。ロシアや東欧に定住したユダヤ人たちが土地の貴族の庇護によってなめし工場を次々と建て、操業をはじめてゆくことが出来た背景がまさにそこにあったのだ。だがその他の欧州の国々では排他的なギルド組織がユダヤ人の参入を拒否していた。それにもかかわらず、過酷な皮なめしの仕事はその特質によって移民や流民のような食い詰めた人々をひきよせていた。ユダヤ人はそこでもギルドに加入していないなめし人として重労働に従事することは妨げられてはいなかった。

英国のブルジョワ層をつくった革

2017年9月上旬、私はロンドンのシチー(金融街)にあるレザーセラーズカンパニー(leathersellers Company)ホールのレクチャールームに立っていた。ここでセミナーをおこなうためだ。英国に数年間住んでいたことはあるがシチーとは無縁のしがない学生だったから、ホールがあるこのあたりに滞在したことはおろか、足を踏み入れるのすらはじめてだ。観光客が好きなロンドンタワーが対岸にみえるが華やかなオックスフォードストリートやナイツブリッジなどとはまったく違っている。なにしろ落ち着きがある。観光客の姿がないかわり、きちんとスーツをまとって足早にあるく人々が目につく。みるからにそれが日常となっている金融関係で働いている人々だ。

後でレザーセラーズカンパニーがシチーのかなりの部分の土地を持っていると聞いて、なるほどと思った。年間百億円以上の予算を持っているのも、真新しいホールのオープニングにかけつけたのがアンドリュー王子というのも納得できる。

ホール内の意匠も凝っている。革の専門家たちが集う場所らしく、床にもタイルにみたてたような革が張り付けてある。薄く灰色がかった紫色(モーブ)という革には難しい色で、クロム鞣しではなくタンニンをつかった天然なめしだ。玄関ホールの階段の手すりの革からはじまったモーブ色で覆いつくされた一階の革をひきたてるために、ガラスの色までモーヴにしている。レクチャールームは静寂な雰囲気を保つために生演奏以外は音響類の使用が禁止されていた。そして金ボタンをつけた伝統的な制服をまとった恰幅のよいスタッフたちがにこやかに応接してくれる。

 ホールは交通の激しい通りから一歩入った静寂な一角にたっているが、建物の前には小ぶりのブロンズ像がつつましく立っていた。かまぼこ型の木の台の上に乗せた原皮から毛をこそげとっている若い革なめし人の姿だ。気づかないで通り過ぎてしまうような小ぶりな像だが、ホールの正面に建っているところをみると、このギルドのメンバーは皮なめしで生計をたてていた遠いご先祖様に愛着を感じているのだろう。

英国のエスタブリッシュメントにかかわる革

18世紀、英国の産業革命が華やかなりし頃、輸出の花形は綿織物だった。その次に多かった輸出品が皮革だったことはあまり知られていない。革というとブーツやバッグなどの日用品や奢侈品になるばかりではない。重要な軍需品であり工業製品でもあった。プラスチックやグラスファイバーがなかった頃、あらゆる工作機械は革を必要としていた。強靭なベルトやワッシャーなどの部品に革がつかわれていた。黒死病が去り人口が徐々に増え始めた14世紀末から英国中の道路が整備されはじめた。増え続ける需要を満たすため、流通網が促進され、人々の移動を支えていた。道路を行き来するたくさんの馬車が必要だったが、馬車の内装や御者の鞭をはじめとする馬具には皮革が大量に必要だった。人口が増えると靴の需要が増える。軍隊にはブーツも刀剣や銃を肩や腰に下げる革も必要だ。帽子や手袋にも革を使う。当然皮革関連業者のギルド、特に完成品を販売する「レザーセラーズ」は大いに儲けて大金を手にする。儲けた金でレザーセラーズのギルドはシチーの土地を買い占めていった。儲けを手にした会員たちは今度はシチーに進出し、実業家や銀行家へと転身していった。

 その結果レザーセラーズの多くは皮革業からの転身を果たしてゆく。ギルド仲間には今では実業家や金融家が多いということになる。ご先祖がつくったギルドの理事を務めたい人々でパーティーはいつもいっぱいになる。手袋づくりの家系に生まれ、皮革研究家となったレッドウッド教授もこの協会のメンバーだ。

彼によると、当初はメンバーのライフスタイルに圧倒された。パーティーでメンバーが何気なく話しているビジネスのスケールが違う。集まりがあると必ず蝶ネクタイをつけたフォーマルな服装で出なければならない。ロンドン郊外に住んでつつましい生活をしている彼は集まりのたびに汽車でロンドンにむかう。その時はかならず一等をとるようにしている。パディントン駅についたらパリッとした蝶ネクタイとフォーマルスーツでタクシーに乗り、このホールに向かうためだ。移動中の汽車のトイレで着替えるので、二等車だと狭いトイレで「苦労して汗だくになる」はめに陥る。そんな涙ぐましい話を披露しながら、彼はイギリス人が歴史を重んじ、ギルドが好きなことを綿々と語ってくれた。

現在の英国のエスタブリッシュメントをみると、18世紀後半から19世紀にかけての産業革命期に資産を築いた人々の子孫が多い。そのなかには皮革業に携わっていたひとも少なくない。20世紀初頭までは、資本家や有力政治家の家系のなかには必ずと言っていいほど皮革関連のビジネスを手掛けている人が混じっていたくらい皮革は儲かったからだ。

職人や商人たちの「カウンターカルチャー・ムーヴメント」

西欧のギルド(ドイツ語でツンフト)は中世から近世にかけて西欧諸都市で商工業者の間で結成された各種の職業別組合のようなものだ。周縁部にたたされ、政治的な声をあげることが許されていなかった庶民のなかから技術をもつ職人や商人といったプロフェッショナルが出現してくる契機となるのがギルドだ。いってみれば彼らの支配階級に対するカウンターカルチャームーヴメントでもある。彼らは13世紀をターニングポイントとして、徐々に力をつけていた。14世紀半ばには欧州の人口を半減させる黒死病が出現するが、その痛手から立ち直り早期に産業振興をなしとげられたのはギルドの組織力のおかげでもある。聖職者や貴族、王族などに代表されるような特権階級に対抗し、市民である商人や手工業者たちは自らの権益を守り、権力者に対抗する力を得たのだった。

 英国では、ギルドのステイタスを誇示するために制服(リヴァリー)をまとうことを決めた。制服を調達できることはある程度財力がなければできないことだから、最低限そのくらいの経済的余裕がある人だけが会員資格をもつことができた。当然親方は該当するがその下で働いている労働者のほとんどはそれに該当しない。制服はギルドの誇りとステイタスを表現するファッションだったのだ。

 このため英国ではギルドはリヴァリー(制服)カンパニー(仲間)とも称される。他所でもギルド組織はあるものの、制服をあつらえることに執心した文化は英国ぐらいだ。職人や商人たちはエスタブリッシュメントの人々が町を練り歩くときに身にまとう堂々としたコスチュームに憧れ、自分達も独自のファッションをつくりたいと熱望し、それを集団のアイデンティティとしたいと願ったのだ。そろいの華麗な制服には革のマントをあしらい、ギルドの紋章が入った帽子を身に着け揃いのブーツを履く。新たな権威が目に見えるようにする示威行為として揃いの制服は重要なファッションだったのだ。

 ロンドンのレザー・セラーズギルドでは今でも新しい理事が選ばれると、古式ゆかしい制服をまとってギルドホールのまわりを練り歩く。年数回の大パーティーの折には多くがギルド伝統の紋章がはいったメダルを首から下げ、ギルドの会長は革の装飾が施された重いガウンを纏う。獲得した特権を忘れないようにし、伝統の力を誇示するためだ。

 ギルドは文化だけでなく社会生活の規律をつくり、「クラブ」として機能した。上流階級の師弟が家庭教師や寄宿学校に行き、教育を受けるのに対し、ギルドでは職業学校の役割も果たして社会規範も読み書きも教えた。技術を父から子に伝えるだけでなく仲間のところに弟子入りさせて修行させたり新しい弟子をリクルートするルートにもつかわれた。親方に息子がいなければギルドで訓練を受けた若者と娘と結婚させて家業を継続することができた。訓練希望者が多い場合、下働きをさせずに親方がギルドの取り決めに従って授業料を徴収することもあったし、仕事を手伝わせる条件で給料を約束し、技術を教え込みながら仕事に従事させることもあった。

ギルドは地域単位で編成され、他所からやってきた同業者が勝手にその土地で営業することを禁じていた。そのかわり仲間には厚い庇護を約束した。もしものときにそなえて自分の葬式代を積み立て、仲間が亡くなるといっしょに棺を担ぐ。未亡人には見舞金を渡す。集団内で婚姻し、職能集団としてのアイデンティティ―も強化していた。

ギルドに似た組織は中東や北アフリカなどにもあった。さまざまなギルドが発行する証明書が製品の品質保証をしていたところもある。遠隔地貿易に携わる商人たちにとって一定の品質を共通のギルドのタグやロゴで保証したりするシステムは便利この上ないものだった。

 英国やドイツ、イタリアなどでは都市行政をつかさどる市長は各種ギルド組織の代表ともみなされ、有力なギルドから選ばれた代表が議会によって都市を運営していた。有力ギルドはまとまりがあり、集金力も優れているので為政者たちにとっても便利な存在だった。戦争などをする場合はこれらの各種ギルドに無心することもできたからだ。

 英国のピューリタン革命がおこったとき、クロムウェルはギルドそれぞれに多額の献金を割り当て、莫大な軍資金をえて国王派との内戦を勝ち抜いた。ギルド側からみると、それまで貴族に独占されていた政治力を彼らにも分け与えたのだからクロムウェルは支持する甲斐があった。社会的ステイタスを向上させる点では悪い話ではなかったし、地域のギルドによっては、土地を収める貴族に対して多額の納税をするかわりにメンバーの兵役を免除させるように取り計らってもらうこともできたのだ。

ギルドの凋落

そんなギルドの繁栄も永遠ではなかった。国境を越えた産業化の波が19世紀の欧州を席捲してゆくにつれギルドは国家にとって邪魔な存在になってくる。地域外からの侵入を許さない。価格も納期も彼らの基準で決められる。地域メンバーの職人たちの権益を守るのが第一だ。国境を超えた産業の波が欧州を席捲してゆくにつれ、柔軟性を失ったギルドは解体させられてゆく。

その象徴的な事例が国際化だ。皮革産業界では、フランス革命の後期に出現したナポレオン・ボナパルトが急激な皮革需要をもたらした。彼は欧州全体を手中に収めようと強大な軍隊を組織し、徴兵制を行く先々で実行した。それに対抗すべく、他の欧州諸国も軍隊を整えなければならない。ナポレオンの軍隊には100万足単位での軍隊用のブーツが必要だった。早く安く作られねばならない。徴兵された兵士らは訓練されていない素人の集まりだったが最低限靴も兵士としての装備も必要だ。そこでナポレオンの率いる革命フランス政府は英国のノースハンプトンにブーツを大量発注する。英国軍隊からも注文があった。ノースハンプトンは英国にもフランスにも靴を大量に納入することになり、好景気に沸き立つ。産業革命による機械化がはじまっていない当時、量産体制を支えたのが家内制分業だった。家族全員で分業して靴を一足仕上げるのだ。子供に鋲を打たせて靴底と上物をくっつければそれまでのように職人がひと針ずつ底革と上部を縫いあわせなくても済む。最後に手を加えて仕上げるのが靴職人だ。こうして靴製造は分業体制へと変貌をとげてゆく。

だが皮肉なことに産業革命が進行してゆくなかでもたらされたのは職人の失業だった。分業が進むと早く靴はできるのだが、職人の必要性が減る。一人前の職人になっても一家を支えることができない。工場では職人としての訓練を受けていない未熟練労働者が低賃金で雇われ、技術をもつ職人の生活を圧迫してゆく。

結局工場に雇われざるを得なくなった元の職人たちは、自分たちの生活を守ろうと職種別の組合を組織してゆく。その先駆けとなったのが靴工職人組合だった。自分たちの生活が脅かされるのを体感し、立ち上がったのだ。

一方、職人ギルドと商人ギルドとの間でも長く深刻な抗争が続いていた。産業革命で大いに得をしたのが資本をもつ商人たちだ。それに比べると技術しかもたない職人たちは十分な恩恵にあずかっていない。もっとも大きな不満をもっていたのは皮なめし人たちだった。皮をなめして革にするという過酷で技術を必要とする労働作業が安く買いたたかれている。なめし人の利益は薄く、革の見極めや値段は靴職人ギルドや仕上げ工のギルドがきめていた。できた革の品定めがほかの職人ギルドに握られているのは屈辱的だ。だがさまざまな皮革職人ギルドでは「最初の革がまずければいくら細工をほどこしてもよい製品にならない」から、なめし革の審査を主張し続けたのだ。なめしが不十分となると革をつきかえすことすら認められていたくらいだった。結局のところ、なめし工場をもち、染色や仕上げまでの工程をすべて抱えられるほどの資金的余裕がある工場主が出現すればその問題は解決する。そして工場主が販売ルートまで抑えているとすれば、莫大な利益を手にすることになる。そんな人々が今ロンドンにある皮革販売業者協会のご先祖たちというわけだろう。

イベリア半島のユダヤ人

イベリア半島居住のユダヤ人は元来北アフリカ出身ともいわれ、スファルディムと呼ばれスペイン語とヘブライ語のミックスされた方言を話す。一方東欧やロシアに居住するアシュケナージはドイツ語とヘブライ語が混合したイディッシュを話す。祖先の土地を追われ欧州や北アフリカに流浪の民として散っていったものの、外来者として迫害され、時に虐殺された民族の歴史をもつ。8世紀当時イベイア半島を支配していたイスラム勢力はキリスト教勢力に比べて寛容だった。スファルディック系ユダヤ人はムスリムのアラブ人やベルベル人の皮革職人たちとも共存し、いっしょに革づくりに励んでいた。モロッコ生まれで英国に移住したユダヤ系ムスリムのオスマンはいう。

 「スファルディック系のユダヤ人は北アフリカでなんの問題もなく過ごしていた。僕のように母親がユダヤ系で父親がアラブ系のムスリムなんていうのは珍しくないさ。アラビア語で流行歌を歌いまくって北アフリカ中にファンがいたのはユダヤ系のサリム・ハラリだ。とにかく北アフリカの文化はユダヤ系なくしては語れない。ビジネスだってユダヤ系もイスラム系も入り乱れているし、イスラエルが戦後突然建国されるまでは、なんの政治的問題もなかったんだ。」

 イベリア半島での「蜜月」も永遠ではなかった。15世紀にイベリア半島のイスラム系諸王朝がキリスト教勢力に敗北すると、イベリア半島からユダヤ人もムスリムも駆逐されてゆく。北アフリカ系のムスリムとユダヤ人はカトリックに改宗するかさもなくばイベリア半島を去るかの選択を迫られた。財力や技術があれば英国やモロッコ、あるいはイスラム圏に逃れる選択もあった。そこでモロッコにはイベリア半島出身の先祖をもつスファルディム系のユダヤ人やムスリムが逃れていった。

 一方、イベリア半島にとどまるために表面上改宗し、ひそかにユダヤ教を信仰し、現地で通婚し生活を続ける人々も少なくなかった。この結果現在のポルトガルやスペインではご先祖のなかにアラブ系やユダヤ系が隠れており、その遺伝子をもつ人々が少なくない。東欧やロシアに定住したユダヤ人たち(アシュケナージ)も迫害され、時に虐殺される危機に直面した。いつどんなところでも生きていけるように生活の糧を得られるには職人や技術者としての能力を持つことだ。ユダヤ人は金貸し業や医術、占星術などの職能広く知られることが多いが、彼らのなかでもっとも多かったのは専門職人だった。

 13-4世紀の欧州のユダヤ人集団の記録をみると、50パーセントから77 パーセントは職人だ。もっとも多かったのが織物職人で職人のなかの30から49パーセントを占めた。その次がなめしをはじめとする皮革職人で、職人全体の15から30パーセントを占めていたという記録もある。

ある19世紀の記録によると、イベリア半島から北アフリカに逃れ皮なめしに携わっていたユダヤ人は、アルジェだけでも45名いた。靴職人も730人いたという。ムスリムとユダヤ人たちがコルドヴァでつくっていた靴は多彩な色に染められ、高級品の代名詞となって「コードヴァン」と呼ばれるようになった。

「コードヴァン」というブランド

今日「コードヴァン」の名称は馬革になっているらしい。それは19世紀後半以降に生じた混乱ゆえだ。ドイツで開発された「シェルコードヴァン」という名前からきているようだ。硬い馬の尻の部分をぴかぴかに磨いた高級な馬革を、馬の尻の部分が貝殻のような形をしていることからシェル・コードヴァンと呼びだしたことに由来するらしい。これでコードヴァンが馬革の代名詞になってしまったらしいが、コードヴァン、すなわちコルドヴァから来たもの、として当初有名になったのは実はヤギ革で、さまざまな色に染められた皮革だった。「コードヴァン」の靴があまりに有名になったために、今日でも英国の英語では靴職人をコードウエイナー(コルドヴァの人)と呼ぶくらいだ。

16-7世紀のオットマン帝国で、ユダヤ人の皮革商人は大活躍した。バルカンからの原皮を買って、それを帝国内で仕上げさせ、売っていた。北アフリカのフェズやイベリア半島のコルドヴァとトルコやユーゴスラビアをつなぎ、アラビア半島のメディナからイタリアのヴェニスに至り、フランスの首都パリともつないで皮革製品を販売してゆく。フェズで原皮にした革をコルドヴァにもちこみ、仕上げてからヴェニスに輸出する。そこで店を開いているビジネスパートナーに渡す。別のルートでは北アフリカを基点とし、アラビア半島に達し、サウジアラビアのメディナにも店をもつ、といった具合だ。原皮は北アフリカのフェズ周辺で集め、下処理し、塩漬けにしてコルドヴァに輸出し加工させる。こんなビジネス地域をもっていれば各地を結ぶパートナーが重要だ。俄然信頼がおける親族や同じ集団内の同業者たちがパートナーとして優先される。それも何代にもわたってこのルートで仕事を続けることで安定的なビジネスになる。このような信頼関係によってつくられているのが革の道であり、それを維持し続け、現在に生きるビジネスと生産加工ルートとして欧州の皮革企業は使っているのだ。

モロッコにゆくと、イタリアのサンタクローチェにある皮なめし工場とつながっている大きななめし工場もある。イタリア本社に雇われている原皮の質を管理する主任のアブドゥラはモロッコ人だがイタリア国籍だ。イタリアとモロッコだけでなくアルジェリア、南アフリカ、エチオピア、南インドと世界中を経めぐって原皮の質を確認する。「モロッコでいいのは小さな牛の皮やヤギ皮だ。牛の原皮の質がいいのはやはり欧州だ。南米の牛皮は質が落ちるが大きいから家具むけにはいい」などと個々の皮の質を現地に足を運んで見分ける作業をしている。インターネット時代になっても実際に目でみて手で触る作業をしなければならないのは昔と変わらない。

「ブランド」として活用される皮革産地は限定されている

スペインにある皮革のまちとして知られているイグアラダで400年以上も操業を続ける天然なめし革の工場があった。フランスの有名ブランドの外注先だということだったが、そのブランドの名前を聞いても決して明らかにはしてくれなかった。フランス製の高級革をスペインで生産させているのはフランスの高級ブランドに傷がつくと考えられているのかもしれない。

ポルトガルの皮革産地として古くから有名なギマラインスでは英国の「フライ・ロンドン」というブランド用の靴をつくっていた。高級ブランドではないが、よく売れる若者向けのブランドだ。ギマラインスのまちでただひとつなめしから完成品までを作っている靴工場ながら、ポルトガルの皮革産地として知られているギマラインス産の靴ではなくロンドンのブランドだ。

欧州の皮革専門家のなかには「イタリアの革よりスペインの革のほうが好きだ」という人もいる。だが産地としてのブランド力はイタリアにはかなわない。フランスの高級皮革ブランドは世界各地で革をつくらせていてフランスでつくらせている革はわずかだ。それでも「スペイン製」をオモテにださない。欧州の皮革産地を比較してみると際立ってくるのがイタリア皮革のブランド力の強さだ。

革職人としてのユダヤ人、そしてムスリムとの「融合」

なめし人は、どの国でも「ひどい仕事」のひとつと考えられていた。動物由来のたんぱく質や糞尿にまみれ、タンニンの強い臭いがする身体で手足は変色していた。いつも汚れた格好をしなければならず、それが職人たちに強いコンプレクスをつくりだした。「貧しい、汚れた」ユダヤ人たちは、身ぎれいにしたキリスト教徒に道で会うと思わず恥ずかしさに目をそらした。キリスト教徒たちが彼らを蔑みの目でみるのに耐えられなかったのだ。

だがユダヤ人たちはさげすまれようとあざけられようと、現地の人々がもたない技能をもった人々でもあった。貴族や王族たちは国の経済を富ませてくれるので、ユダヤ人商人や職人の定住を歓迎していた。臭気をともない屍を使うなめし業を土地の人々はいやがったが、ユダヤ人の職人たちはひるむことはなかった。技術さえしっかりしていれば食いっぱぐれはない仕事だった。ユダヤ人集団を呼び寄せて、自分の領地に住まわせれば安く確実に革が手に入る。そこで地域の諸侯は領地内に工房を建てさせ、経営もユダヤ人にまかせた。ヴェニスの貴族たちは当初トルコのコンスタンチノープルからなめした革を輸入していたが、輸送コストを抑えるため、ユダヤ人職人をヴェニスに呼び寄せた。こうしてヴェニスではなめしの仕事と皮革販売業がユダヤ人集団の手中に収められてゆく。王侯や大貴族の庇護をうけ、ユダヤ人たちはなめし工房の職人や親方から工場を経営する事業主へと転身してゆく。17-8世紀のことだ。

南北アメリカ大陸が経済的に活発化してゆく19世紀になると、ユダヤ人たちは南北大陸に渡り、なめし工場を新大陸にもつくりはじめる。そしてみずから経営者となって大陸の皮革業を牽引してゆく。なかにはその後皮革製品を含む衣料やスポーツ用品などに進出し、ファッション業界に進出してゆく人々もいた。

アジアのなめし人集団、客家たち

華僑とは中国大陸でも華南地方から移住してきた集団全般をさすが、なかでも客家は皮なめしや靴産業と結びつきが深い。今日でも台湾やタイ、インドネシア、マレーシアなどにゆくと、靴産業や皮なめしなどの皮革ビジネスセクターには客家が多い。

欧州列強による植民地政府は、進出した先で軍需品としての革を必要とした。イギリスが植民地化したインドやマレーシア、シンガポールなどにはいずれもムスリムがおり、彼らが皮革づくりを担当した。インドではヒンドゥー教徒たちは皮をケガレとみなし、皮なめしなどの職業にはつきたがらなかった。そこに食い込んだのが客家だった。中国南部から移住した客家たちは英国植民地の国々に食い込み、革製造や靴づくりを生業とした。ケガレなど意に介さない客家たちはみずから小さななめし工場をスタートさせ、家族ぐるみで働いた。なめし革だけでなく靴や鞄などの革製品をつくり、カルカッタのチャイナタウンで売りまくった。カルカッタでベンティンク通りと呼ばれていたチャイナタウンに近い一地区は、のちに靴通りとよばれるほどで、客家たちが経営する靴店が当時は目白押しだった。

だが第二次大戦後、その繁栄にも終焉が訪れる。第一の亀裂は中印紛争だった。インド領を中国が侵略し、インド全土にアンチ・中国の嵐が吹き荒れると危機感をもった客家たちは東南アジアや欧米に移住してゆく。1970年代にはいるとそれに追い打ちをかけるようになめしの汚水処理が環境問題となり、中小工場に多額の汚水処理場の負担がのしかかる。客家たちは中小工場の経営者が多かったので自前で多額の汚水処理設備をつくれない。こうして客家たちの工場は次々と廃業していった。

今日カルカッタでなめし工場を続ける客家は十数件に縮小し、客家の多くはすでに東南アジア諸国や台湾などに移住し、そこで皮革産業に携わっている。彼らが去ったのちのインドの皮革産業はもはやムスリムたちの独壇場だ。

南インドの革をつくるムスリムたち

インドの東部のカルカッタ周辺では客家が皮革をつくったが、インド北部や西部、南部では古くからムスリムが皮革づくりを担ってきた。ヒンドゥーのなかでも被差別カースト(アンタッチャブル)の人々が皮革づくりに携わることもあるが、彼らの多くはなめし工場の労働者やその下働きだ。皮革工場の運営や皮革技術、販売ルートなどを抑えているのはインドのムスリムたちだ。南インドのタミルナード州は皮革製品のメッカだ。州都チェンナイから靴のまちとよばれるアーンブールまでの地域は皮革ベルトとも呼ばれ、輸出に携わる皮革産業の中心基地だ。地域一帯の住民はムスリムが多いだけでなく経営者のほとんどもムスリムだ。一般のカースト・ヒンドゥーたちからはケガレていると見下されている「マイノリティ」ではあるものの、経営者や技術者ともなれば財力や社会的地位も高くなる。

インドで最大の皮革生産地として海外からのグローバル企業から生産を委託された工場が多数操業している。州政府の肝入りで完成した巨大な汚水処理リサイクル施設はコンピュータ制御され、ムスリムの技術者たちが管理している。「数か月前には日本からも視察団がきましたよ」と笑顔で技術者たちが答えてくれた。

 ムスリムが多く住む地域でもあり、貧しいムスリムの女性たちにもひろく雇用のチャンスを与えている。事業主だけでなく管理職から技術者、工場労働者たちまでほぼ全員がムスリムで占められた皮革工業地帯ではインドのムスリム中流層がつくりだされているだけでなくヒンドゥーのバラモン出身のデザイン学校を出た若者たちなどは革製品のデザイナーとして活躍し、革の縫製工場にはヒンドゥーやキリスト教徒の女性たちも雇われている。インドのムスリムたちは、東南アジアやアラビア半島との皮革ビジネスのネットワークがある。卑しい仕事だとヒンドゥーが敬遠した皮革産業だが、今や輸出のトップを占め、インド製の皮革のクオリティも上がっていて、欧米の有名皮革メーカーもこの地帯からの皮革購入に積極的だ。それを可能にするのがEUが設定する労働環境や労働条件をクリアーしていることだ。工場排水や産業廃棄物のリサイクル率も要求値をクリアーしている。中小のなめし工場が資金を出し合い州政府の支援をえて共同の工場排水処理システムをつくったことはビジネスチャンスを大きく増やしているのだ。日本でも1970年代には皮革工場排水の処理とリサイクル施設が行政の助成金で主な皮革づくり地帯に完成した。だがそれでも一般家庭に比べて水の使用量が多く地方自治体の財政を圧迫するとして軋轢を呼んでいる地区もあるらしい。中小なめし工場での皮革づくりは採算があわず経営は日に日にむずかしくなっている。中小のなめし工場の特性を生かしつつグローバルに認められる高級皮革はなぜ日本ではつくれないのだろうか。

グローバルな飛躍を遂げられなかった日本の皮づくり集団

ユダヤ人や客家集団のように海外を飛び回るアクティブな皮革集団となれなかったのはなぜだろうか。その答えのひとつは江戸時代の鎖国政策だ。幕府の政策によって海外渡航は厳しく制限され、交易はごく少数の御用商人が行うことが許されていた。250年の間、日本は世界の僻地となり、当然ながら皮革づくりの職人や商人たちが海をわたって活躍する機会は失われていた。もしも彼らが海外に飛躍できていたら、その技術は大いにもてはやされ、社会的地位も上昇したに違いない。

しかし賤民制が廃止され自由な海外展開が可能となったはずの明治期でも皮革職人や商人たちが海外に飛躍することはほとんどみられなかった。むしろ皮田外から参入してきた経営者たちが中心となった軍需品としての皮革工場のほうが拡大の一途をとげた。革づくりは近代国家にとって不可欠な産業となり、靴や武器製造に欠かせない革を近代的な手法で大量につくることが至上命令となったからだ。

革づくりを一手に引き受けていた特権を失った皮田集団は経済的な危機に見舞われ路頭に迷う人々も増えた。彼らを救うために日本ではじめて近代的な皮なめし工場と靴工場を造営したのが旧エタ頭の弾左衛門こと弾直樹だ。彼と前後して士族出身の西村勝三もなめし工場と靴工場を造営してゆく。両者はそれぞれ欧米から専門家を呼び寄せ革づくりや製靴の方法を職工たちに伝授させた。弾と西村の間には同業者としての互いへの敬意と親密な交流があった。禄をなくした下級武士の師弟のなかには西村の指導によって靴職人になる若者もおり、旧皮田集団と旧侍や町人出身の靴職人たちは同じ「靴職人」としての仲間意識でつながっていた。彼らが共同して起こしたのが日本ではじめての職工組合であり、靴職人組合だ。人々の苦闘の甲斐あって近代化をとげた靴産業は10年余りで国産の靴をロシアに輸出できるようになる。皮革工場は原皮をもとめて満州へも工場進出してゆく。

軍需産業のくびきから放たれた第二次世界大戦後、中小の皮なめし工場や靴産業は未曽有の繁栄を謳歌した。原皮不足が1960年代にようやく解消され、アジア諸国へも輸出が可能になったのが1970年代だ。しかし日本から技術を吸収した中国はあっという間にアジアの皮革市場を席捲し、1970年代をピークとして日本の皮革産業は急激な下降線をたどる。

 押し寄せた途上国からの安い革の攻勢に国内の市場をも失い、皮革の流通機構を百貨店や問屋に握られ、それらからの依存体質から脱却することは20世紀の最後までできていなかった。

21世紀にはいりようやく日本の皮なめし業界も「ブランド化」「高級化」が不可欠なことに気づく。だがブランド力を獲得するのは厳しい道のりだ。

かつては安い革しか作っていなかったアジア地域にもグローバル企業とされる皮革製造企業が並び立ち、環境基準に合致し模範的な工場とされるサステナブルな環境づくりを果たしている工場も何か所か出現している。プライムエイジアやイサ・サンテックなどの世界でもトップクラスの皮なめし工場がそれだ。EUなみの高い環境基準と労働条件をクリアーする「模範工場」からは欧米からのオーダーが絶えず、アジア内にもマーケットがある。EU内でも工場の巨大化、最新鋭の環境整備は続く。

イタリアではミラノ近郊やアルツィニャーノ、ヴェローナなどに高級ブランド企業が何社も最新鋭の大工場を持つ。マストロット、ボナウド、モンテベロなどは巨大でありながら工場内が美しく整備され最高レベルの革を産出できる。労働環境と廃棄物のリサイクルにも怠りがない。エルメスやヴィトン、シャネル、ボッテガ・ヴェネタ、プラダなどに卸す高級皮革の一部はここで生産されている。

 こんな巨大な皮革産業が割拠するグローバル社会で日本の皮革産業が21世紀に生き残れるのだろうか。ひとつの小さな希望がある。「ブランド力」には重要な要素として「ストーリー性」が残されている。小さくとも高級皮革としてデザイン性とクオリティ、そして顧客へのサービスで生き残ることは可能だ。それを示して見せたのがイタリアでも高級皮革路線を貫く中小なめし工場がひしめくサンタクローチェだ。

ブランド力のなかには「伝統」というストーリー性を欠くことができない。地域自体をブランド化するストーリーも重要だ。この視点から日本が明治維新以前に培ってきた皮革づくりの伝統を世界にアピールすることはできないものだろうか。「ストーリー性」に着目すると、日本の皮革にもわずかだがチャンスがあるようにも思われる。ご先祖さまが残してくれた財産が21世紀の日本の皮革をよみがえらせる希望の光ともなるかもしれない。

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