皮革をめぐる断章2020:ポストコロナ時代を考える

皮革をめぐる断章

2020年6月、私はいつも通り夜の時間を利用して使い慣れたzoomをたちあげた。すでに日中だけでなく夜の時間帯にもzoom会議やセミナーの予定をいれることには慣れっこになっている。対話の相手は開始5分前に待合室にはいっていた。繋いだ先はロンドン郊外の小さな町に住む皮革専門家レッドウッド教授だ。久しぶりに顔をみたせいでお互いに再会を喜びあったのもつかの間、教授の笑顔はすぐに消え、もとの疲れた表情がもどってくる。毎日のようにzoomやWebex、hangoutなどを駆使した会議やセミナー参加によって世界とつながっているとはいえ、離れて暮らしている子供や孫に会えないのが苦痛だ。外に自由に出かけられるわけでもなく、さらに職を失った若い世代が周囲にあふれている。ITエンジニアや航空関係など専門領域で活躍するプロフェッショナルとて例外ではない。

 世界中でみられるパンデミックで誰しも疲れている。心理的な影響も大きくカウンセリングを受ける若い人々への影響はコロナウィルスが去ってもしばらく続くだろう。医療や公衆衛生関連の費用は政府を圧迫し、どの政府も火の車だ。早晩税金を上げざるを得ない。COVID-19のせいで世界中がかき乱されてすでに半年が過ぎようとしている。だが今年いっぱいはこの状況からは逃れられないだろう。東京オリンピックが開催されても観客は海外からやってくることが出来ないかもしれず、予防ワクチンが開発され、世界中にいきわたる2-3年先までは世界経済は停滞せざるをえないだろう。

 2019年12月31日に中国がWHOにレポートした原因不明の急性コロナウィルスは各国の経済をかき乱し、既存の就労体系や生活スタイルまでも大きく変更される事態となった。グローバル経済をけん引してきた欧米や中国では高級ブランド品を扱うブティックや百貨店が閉められ、人々は家を出ることさえ禁じられる始末だ。すでに私が予定していた2020年3月の浅草での「皮革の世界からみたグローバルファッション産業の今」と題されたセミナーは中止され、来日予定だったレッドウッド教授も飛行機での移動を禁じられている。 

 だが、当然ながらこんな現状でも産業界は経済を動かすべく必死の努力を続けなければならない。多くの就業人口を抱え、裾野を含めるとグローバルな経済的インパクトをもつラグジュアリー産業も同様に、この閉塞状況からの「出口」を考えねばならないのだ。そこで重要な一角を担う皮革産業も必死だ。

 レッドウッド教授は、おそらくこれから10年あまりは欧米のラグジュアリーマーケットの復活は見込めないだろうと考えている。「リーマンブラザーズの破綻後の金融危機を受けて、世界の経済が10年間停滞していたことは記憶に新しいが、それより今回は悪いかもしれない。」からだ。

だが、すでにドイツの小売り業界では若い消費者層にむけた安い価格帯のものを量産しはじめている。イタリア、スペインでも同様だ。超高額なラグジュアリーアイテムの代わり、価格設定が安めのものが売れるだろう。

 かつて欧米で富裕層とされてきたのは4000万人もの60代以降の高齢者層だ。彼らは十分な資金と余裕をもって超高級品を買い求めてきた。それを追うようにしてそれより若い層は「高級ブランド品」を買い上げてきたというわけだ。だが、COVID-19が引き起こした大量の失業により、高級品のターゲットだった年長の富裕層は余裕がなくなっている。資金がないわけではないが、それは子供や孫世代の生活を支えるために緊急出動せざるをえないというのだ。若い層では何か月もの失業期間を経て親世代に支えられることなくして生活が立ち行かなくなってきているという深刻な事態が生まれている。欧米はしばらくこの状況から立ち直れないだろう。

 ではこれからラグジュアリー・マーケットはどこにターゲットを絞っていくのか。「東だ。つまり中国。」「そして日本。」そこから私たちの議論は始まった。

ポストコロナ時代を長期的に見据えた視点だ。だが現在グローバル産業一般にみられるのは多極化だ。あまりにも世界の工場としての中国に生産を依存していたゆえに中国からの物資が途絶えると途端に生産が不能に陥る。アップルのIphoneがいい例だ。中国は生産するだけでなく強大な消費市場としてもこの30年あまり大きなシェアを誇ってきた。加速するグローバル化が必ずしも良いことではなく、むしろ大きな危機をつくりだすことはこれまでに警告されてきている。それがコロナウィルス災害によっていっそう浮き彫りにされてきた。当然これからの世界はコロナウィルスの危機を糧にした産業構造になっていかなければならない。

 1980年代に急成長したグローバル化したブランドグループは高級品を世界中どこでも手にいれられるような体制づくりをして大成功を収めた。高級皮革製品で知られるルイヴィトンとブランデーメーカーとして知られるモエ・ヘネシーが合体したLVMHがそのよい例だ。彼らは傘下にサンローラン、セリーヌ、ジヴァンシーなど多数の有名ブランドを抱えている。あげくの果てにどの空港にいっても有名ブランド品は手にいれられるようになり、高額なブランドイメージをつくりあげるための広告費だけでなく均質的な仕上がりと大量に供給できるサプライチェーンによって品不足にならないような体制が「サービスの向上」とともにめざされてきた。その戦略に乗って世界各地で百貨店が高級品にふさわしい商品陳列とサービスを提供してイメージ保持につとめてきた。だが今や百貨店が経営危機にたたされている。米国のメイシーやデーベンハムなどの有名百貨店が経営危機で生き残れないかもしれない。

 一番割を食うのはやはり途上国でグローバルなサプライチェーンに組み込まれた工場だ。世界基準に合わせたエコ・フレンドリーな体制を遵守し、世界の有名ブランドに納入していたインドの皮革工場が「需要がないので革はいらない」と受け取りを拒否されているという。工場労働者の雇用保全を第一に考えているわけではないからだ。

 雇用維持を優先し、職人技を維持しようとすれば、おのずから企業は小規模、中規模にならざるをえないのかもしれない。ドイツのECCOのように従来から皮革のリサイクルや環境負荷を抑える対策を啓蒙してきた企業となるとコロナ災害のなかでも雇用に対するアプローチは異なる。

ポスト・コロナ時代のブランディングとは

新たなる「ルック・イースト」の流れのなかで、レッドウッド教授が気づいたのが若者世代のなかでの「あまり知られていない小規模ブランド」志向だ。ルイヴィトンだのコーチだの、グッチだのは「ダサい」。自分だけの「オンリーワン」、知られていないブランドの良さを発掘する楽しみ、それを「自分のものとしてインスタグラムなどで知り合いに宣伝したりみせびらかしたりする」現象は、コロナウィルス災害以前にすでに静かに進行していた。今やそれが中国でもみられるというのだ。それほど高額でなくとも、作り手の思いが伝わり、長期間それを愛用することによって愛着を込められるものたちが、ポストコロナ時代でのラグジュアリーアイテムになるだろう。

 そうなれば、わざわざ修理しメインテナンスに時間を費やすことになり、周辺産業にも波及する。修理もメインテナンスの技術も職人を必要とするからだ。実をいうと日本の若者世代にはそんな執着心を「クールだ」と受け止める層がいる。私は靴磨きのコンペまであると聞いてびっくりしたことがある。若い「靴磨き職人」は、「僕は靴づくりをドイツに勉強にいって、下宿した先のおじさんが靴磨き職人だったのをきっかけに弟子入りし、その世界にはまり込みました。」と告げた。調べてみると、靴はだれがどんな磨き方をするかによってまったく違う製品になるというのだ。だから東京では毎年靴磨きのコンペが開かれるほど特定層の若者たちには「靴磨きの高度な技」は知られた存在だ。

 レッドウッド教授と話している間にポストコロナ時代ではラグジュアリーとかブランディングということの再定義がおこなわれてくるだろうということが話題となった。「たしかにその通りだ。そして、その定義は1980年代からのグローバルファッション産業を通事的に見通しながら、今を考えることで可能になる。コロナ禍が去ったらどのようになるかを見通す作業が必要だ。」ということになった。

本稿を書き始めたのはそんな思いからだ。通してみると、いろいろなヒントがでてくる。今が突然あるわけではなく、それまでの人々の必死の努力と先を見通そうとする努力をみながら、ポストコロナ時代のグローカル化(グローバル化とローカリズムを組み合わせたスタンス)を見据えてみよう。

 まず、ストーリーを直近の2019年へとまきもどしてみることにする。

ミラノのファッションウィーク

イタリアの皮革協会(リネアペレ)でコンサルタントをつとめるオリエッタに出会ったのは2019年の春のニューヨークだった。世界皮革会議に招待されスピーチをするために壇上にむかうオリエッタは小脇に美しいバッグをかかえている。それを横にあるソファにぽんと置き、皮革の「ブランド力」について語りはじめた。話が終わりかと思って拍手をしかけたのだが、「さて最後に」といいかけてソファからあのハンドバッグを片手でとりあげ、自分の顔の前にかざした。聴衆の注目がそのバッグに注がれる。そして聴衆にこう尋ねた。「たとえばこのハンドバッグ。このバッグをみたとき、私はどう反応したでしょうか?」一呼吸おいて聴衆を見渡しながら畳みかける。「どうしても欲しい!」「値段?そんなもの聞きたくないわ!」勝ち誇った笑みを浮かべる。「そう。それがブランド力なのです!」

 聴衆が一斉にうなずき拍手する。私もうなってしまう。ああいわれたら「お値段は?」などと聞き出せなくなる。まったくみたことのないデザインと色使い。それでいてとてもエレガントだ。ブランドもののハンドバッグには疎い私ですら、身の丈を忘れ「ああ、欲しい!お金があればなあ!」と強烈に欲しくなった。みとれすぎて写真にとるのも忘れたくらいだ。持つ人を引き立て、周囲を振り向かせ「値段はいくらだろう?」「どこのブランドだろう」とやきもきさせるに違いない。でもどうせ高くて手が出ないだろうからーと元々それを買えない人々はあきらめてしまい、店で「これが欲しい!」と指さす人々は「金額なんて気にしない」人々だ。その段階からあのバッグはおのずと厳しい選別をするのだ。選別され、あのバッグを購入した人々の満足感は確かなものに違いない。

 隣にすわっていた英国人のレッドウッド教授がささやく。「彼女はとても頭がいいよ。あとで話してみるといい」。

 休息タイムにオリエッタに自己紹介し、ミラノでのインタビューを申し込んだ。だが私の頭はあのハンドバッグのことでいっぱいだ。よほど大事なハンドバッグとみえ、彼女の腕にはもはやあのハンドバッグはない。あのハンドバッグをみせてほしいとも値段はいくらでしょうかとも恐ろしくていいだせない。「あのハンドバッグ、いったいいくらくらいだろう。どこのブランドだろう?!」頭のなかでは数十万円台から数百万円台の数字が渦巻く。がっかりするのが恐ろしくてオリエッタと話しながらも結局あのハンドバッグのことには一言も触れられなかった。

 オリエッタに再会したのはその夏のミラノだ。イタリアの皮革産地の見学とインタビューできる人について相談するためだが、ニューヨークとはうってかわってやつれ、げっそりしている。もとから細身だったがそれが骨と皮だけだ。近くの編集スタジオから抜け出してきてくれたというのだが、夏の暑さよりも仕事の過酷さにまいっているようだった。

 夏だというのにもう10月のファッションウィークの準備は始まっている。わずか数分のプロモーションビデオがなかなか仕上がらない。ひとつの皮革メーカーのためではなく、イタリア皮革全体のプロモーションをしなければならない。それもシーズンごとに変わる。毎シーズンつくっては捨て、つくっては捨て、の繰り返しだ。ミラノだけではなくニューヨークやパリ、あるいは新興国の都市でみせて宣伝するために世界を旅してまわる。苦労してこしらえたイメージを捨て、あるいはちょっと改良して大きなファッションウィークのために違ったプロモーションビデオをつくる。それもシーズンごとに。なんと過酷な仕事だろう。

 彼女の後ろに控えているADに、「もうだめ。疲れていいアイデアが浮かばない。最初のシーンのライティングが強すぎる。ちょっと休んだら最初からコンセプトを作り直すわ」といいおいて私とともにリネアペレの事務所があるビルにはいる。やつれた身体とくしゃくしゃに結い上げた髪を振り乱すようにして首を振り、苦しそうにため息をつく。「ああ、どうしよう。明後日からソウルに3日間出張なのよ。そのプレゼンの用意もまだ。最悪飛行機のなかで仕上げることにするわ」

 かえってきたらミラノのファッションウィークだ。ヴィデオだけではなくステージングから展示のアレンジまで彼女が采配を振るう部分は多い。細い身体が一層骨と皮になるわけだ。

 超有名ブランドのアート・ディレクターともなれば、もっと過酷だ。最低限ミラノ、パリ、ニューヨークを毎週何回も何回も行き来し、それぞれのシーズンごとにそれぞれの場所で新しい作品群を提示しなければならない。新しいアイデアをカラ雑巾を絞るようにして捻りだすのだろうか。

 アート・ディレクターはブランドの戦略についての決定を下す職種で、高級ブランドやファッションハウスには不可欠な存在だ。配下に多数のデザイナーやアシスタントを従え、昼夜議論を重ねながら素材を選び、デザインを決め、現場でモノをつくってゆく。事務所の机を使わないでまちを歩きながら、あるいはホテルのベッドの上や飛行機の時間すら利用してコンセプトを練る。スマホを使ってデザインコンセプトを描き、必要なスタッフとコンタクトを取り続けるひともいる。新しいプロジェクトに必要な人々はSNSで宣伝し世界中からリクルートすることもある。複数の分野を縦断したプロジェクトを引き受け美術館の内装や工業品のデザインまで手掛けてしまうひともいる。働きすぎて身体をこわし、ペースを緩めるようにドクターストップがかかったという話はざらだ。数年続けたら燃え尽きるといわれるのも納得だ。

 ファッション・ウィークはきわめて重要な商機を提供する。もっとも重要な場所は第一グループのパリ、ミラノ、ニューヨーク、ロンドンだが昨今は途上国でも産業としての地元のファッションを育てようという機運がある。欧州でもフィレンツェやベルリンも重要なファッション基地だし、アジアは今や消費地であるだけでなく自らファッションを生み出す基地群だ。東京、上海、ソウルなどに加えクアラルンプールやシンガポール、ムンバイ、バンコックなども活発だ。ファッション産業は周辺産業を巻き込み、大きな付加価値を生む。新興国もこれに気づいてきて、ファッション産業を振興するために第一グループをまねて毎年2回のファッションショーが各地で開かれるようになってきた。カイロやサンパウロなどアフリカや南アメリカにもファッション基地はある。リネアペレはそのいずれにもイタリア革の宣伝のためにでかけてゆく。そこまでしないとイタリア皮革のブランドイメージを浸透させられない。イタリア革のグローバルファッション産業におけるゆるぎないステイタスはこのような地道な努力によって支えられている。

高級ブランド品は高額だが希少ではない

かつては「一点もの」とか「世界に10個しかないもの」などが名品とされ、ブランド品として知られていた。だが今は異なる。高級ブランド品はミラノや東京、ソウルのショッピングアーケイドでもお金があれば簡単に手に入る。高級ブランド品の需要はグローバルだ。日々増え続ける世界の富裕層やミドルクラスのために大量供給される仕組みが高級ブランドを支えている。ささえられる生産体制をもつグローバル企業だけが生き残れる。小さな企業や工場が特徴的な製品を生き残らせようとするならばグローバルなネットワークに連結してサプライチェーンを確保し、ファッションウィークや展示会でこまめに宣伝を繰りひろげなければならない。

 ファッションウィークに登場する小物類のなかでもっとも重要なのが皮革製品だ。アパレルは高級品だが、それ以上に高額なのが皮革製品だ。ラグジュアリーブランドはアパレルより単価が高い革製品で高い利益を享受し、それを売り物にしてブランドイメージを固める。

  サイズを細かく指定しなければならないアパレル製品より1サイズ取りそろえればいいのだからグローバルに売るのに皮革製品は便利だ。単価も高く汎用性があり、男女兼用だったりする。ある製品が好評であれば毎年作れる息の長いシリーズにもなり利益が長く確保される。だれもが知るブランドとしてのステイタスシンボルとして分かり易い。

 高級皮革製品のグローバル市場は年5%以上の高成長率で、アパレルの2%と比べても高い。2018年の時点では革製品は年48兆円を稼ぎ出している。2018年に6兆円を稼ぎ出したアパレル市場の8倍だ。

 金やダイヤモンドのようなぜいたく品とも組み合わせられる「豪華さ」をもちながら革は日用品としても使える。その気軽さゆえか高級な革製品は若者の間でも人気が抜群だ。破れたジーンズやTシャツ、フーディ―と合わせても高級ブランド革は引き立つ。ジーンズにスニーカーを履きブランドものの革ジャケットやバッグをさりげなく「ヒップな」感覚で使いこなす。上品ぶったハイファッションでキメルのは「ダサい」のだ。

ブランド品にはグローバルネットワークが必要

 「黙って座っていてはダメ。どんどん前にでて売り込まなくては」。リネアペレだけでなく、イタリアの皮革業者はいつも積極的だ。世界各国でバイヤーを探し、話しまくって丁寧に売り込む。イタリアの皮革業者に限らない。中国やスペイン、フランスの皮革業者も活発に世界を飛び回る。

 だが日本の皮なめし業者の姿はそこにはほとんどみられない。世界的に知られている日本の皮革づくりの会社といえば「ミドリ」だけだ。トヨタや日産などの車のシートをブラジルや上海に工場をたてて生産している企業でなめしから完成品までを一貫して製造できる。だが作っているのは車のシートの革、せいぜい中級品だ。高級ハンドバッグや靴をつくる革ではない。

 日本の皮革産業の場合、日本という大きな成熟したマーケットが目の前に広がり、関税障壁で守られていた時代が長く、お客はむこうからやってくるという体制が長く続いてきた。だがその状態で足踏みしている間に世界の皮革市場は急速に変化を遂げた。

 イタリア皮革の場合は成功のカギとなったのが1993年に発足したEUだ。EU外からの皮革には関税がかけられる。もっともEU内で売るためにはイタリアやスペインであってもEU基準に皮革をあわせる必要があるから大きな努力が必要だった。だが努力のかいあってイタリアの革はEUを足場にEU外にも「質の高い革」として売り込みをかけられるほど皮革の質を向上させることができた。さらに追い風になったのはインターネットによるグローバル化の加速だ。中小の業者でも顧客サービスを大事にすれば十分商売ができる。高級で少しばかり値が張っても「ほしい」という消費者のマーケットが世界中に出現した。「イタリアの高級革を輸入し、その革でつくった「シューズ」「バッグ」「財布」などが中国や日本で作られ、高い値段で売れている。「イタリア製の革」「サンタクローチェ産の革」というだけでブランド力がある。イタリアのなめし業者は「サービスの質」も自慢する。

 バイヤーの要望をていねいに聞き、ともに商品開発にも携わる。研究するためになめし業者もまちにでる。コンサルタントを雇う。シーズンごとに変わるトレンドをいち早くピックアップし、それにマッチする製品開発をする手伝いをする。顧客が10社あるとすればそれぞれが違うニーズを抱えている。細かい話し合いと研究が毎シーズン必要だ。

 座って顧客がファックスを送ってくるのを待っているのでは間に合わない。コンサルティング料込みの料金であれば買う側にも同じ業者から買い続ける利点はある。

 「日本の革はイタリアの革と同じくらい質が高い」とイタリアのなめし業者もみとめる。だが、「値段が高すぎる」と厳しいことをいう。イタリア革とはそこで勝負にならないというわけだ。

 革が高いといっても日本のなめし皮工場が暴利をむさぼっているわけではない。およそ「ファッショナブルな」環境とはかけ離れた工場で汗にまみれ、ひたすら革をつくっている。日本の皮革工場は給料が低めで日本人の若者からは敬遠されるため、外国人労働者が多い。工場も整理整頓されているとはいえず、他業種より福利厚生がすぐれているわけではない。

 この状況からたとえよい革がつくれても欧米で売り込むのはむずかしい。欧米ではすでに禁止されている溶剤やなめし剤も使われていることが多い。工場がきちんと整頓され安全に操業されていることや従業員の待遇が一定以上であることなどの厳しい基準がある。それらをクリアーした革だけが欧米の高級ブランドに納入できる。有名ブランドに革を納入しようとすれば、原皮の質やなめしの質をみる「クオリティーコントロール専門家」や「労働環境や工場の安全性、皮をとられる動物が「虐待されずに安楽死させられている」ことをチェックする専門員などの訪問を受けることになる。労働基準を守り、適正な給与を払っているかどうかもチェックされる。イタリアやフランスの高級ブランドがアフリカや東欧やアジアで皮革の一部を生産していることもある。だがそこでも年に数回親会社が監査役を派遣し、チェックが厳しく行われる。チェックをすり抜けて弱小工場に孫請けにだしているとすれば、それが明らかになった時点で欧米のパートナー企業から契約を打ち切られるのだ。高級ブランドがそこまで気にしているのは彼らの顧客が「安全基準や労働基準をみたさない革」をひどく嫌うからだ。

見えない基準が革のクオリティとブランドを管理する

高級皮革には環境基準や労働環境基準といったみえない要素が「ブランディング」の必須条項として存在している。それらをクリアーしたというお墨付きがなければ高級品とはみとめられない。一方その基準の外にある革もつくられている。アジアやアフリカの工場だ。だがアジアやアフリカ諸国のマーケットにも日本の革は販路がほとんどない。安売り競争では中国の革に圧倒的に劣っている。中国製の皮革に押しまくられ、多くの日本のなめし工場は閉鎖に追い込まれていった。今や八方ふさがりの状況なのだ。

 国産の革が売れに売れたのは市場のグローバル化と前後する70年代後半だ。それは一時的な現象だったのだが、多くの中小皮なめし工場はその繁栄を永遠に続くと思い込んだ。皮革業者はつくればつくるだけ儲かったからそのお金で「ゴルフ場やラブホテルまで経営したなめし業者もおったくらいや」と姫路のなめし工場主はいう。利益を本業の皮革の「ブランディング化」には投資しなかったのだ。そのまま次世代への準備を怠り、途上国からの安売り攻勢に対処できなかった。生き残るための戦略を描いている日本の皮革業者はごく一部にすぎない。

「ブランディング」という目にみえにくい「魔力」はイタリアの革と日本の革を差別化する。その差別化は革がつくられた土地や生産工場の「ヒストリー」や「カルチャー」という「ストーリー」がつくっているものだ。

高級皮革にはストーリー性が必要

高級革の産地として知られるサンタクローチェは昨今では旅行者が革製品をもとめてやってくるまちでもある。その製品づくりを習いたいとして外国から修業しにやってくるなめし人たちもいる。サンタクローチェ産の皮なめし用の機械は世界中から引き合いがあり、大いに売れている。

 だが機械を買い、修行したたなめし人を使って「サンタクローチェのような革」をつくりたいといっても無理な話だという。「我々と同じ革は外ではつくれない」と現地の業者はいう。「この土地の風や光、色使いをどうやってもっていくのですか。私たちはこの土地で生まれ育ってその色合いやら肌触りを獲得していく。どうやってこの土地の光や風を自分たちの場所で再現するんですか。一回は同じものがつくれてもそれはコピーにすぎないでしょう。移り変わる流行のなかでもコンスタントに製品を生み出しえる力は文化からきています。この土地からフィレンツェまでのルートには昔からバックルや留め金などの付属金属類をつくっている工場があります。こちらの革を使って複雑な革紐をつくる工場や、ベルトやハンドバッグを縫って製品に仕上げる工場までこの界隈に立ち並んでいます。それらが合わさってこそサンタクローチェ産の革が生きるのです。それが独自のファッションを生み出すのです。サンタクローチェの機械を買っても私たちと同じ革はよそではできないのです。」

 地域性というストーリーは周辺の産業を巻き込んで統合的なファッション基地がつくられる過程を示しているのだ。

革のストーリーが革の魔力をつくる

「文化や伝統に培われた職人性」が「かわらないもの」としてのストーリーをつくる。革の生い立ちが問われている。皮革づくりをエコに配慮し、従事者の生活を守る「環境との共生」をはかっているというストーリーをもつモノであることも必要だ。それには先進技術も必要だ。水やエネルギーを節約し、環境破壊をしない製品であること、つくっている労働者の労働環境もよいことが必須のストーリーだ。もうひとつのストーリーは素材となる動物に対する感謝と愛護の気持ちを示すことだ。環境保全だけでなく革となるワニや牛、子羊、クロテンなどは敬意をもって扱われなければならない。これらを守らなければ21世紀の皮革の高級ブランドにはなれない。

 EU内の革の75%はイタリア産といわれ、原皮や半加工した皮革類はEU域外からも輸入される。しかしEUではEUが課した環境保全基準と労働環境基準を守って製造されているという認証がなければ販売できない。

21世紀の「カウンター・カルチャー」を支える「破壊的技術革新」

 途上国の労働者に「フェアな賃金」を払い、土地を荒らさない有機農業で作られた製品を推奨するフェアトレード運動は20世紀の大企業に大きな変革を迫った。企業は消費者団体からのクレームが大きくなれば企業業績を脅かし、廃業にすら追い込まれることを思い知らされた。「早く、安く」製品をつくることが20世紀までの大量生産体制だとすると、21世紀の生産体制は「早く安くつくっても有限な資源を無駄にするならば産業としてなりたたない」という認識のうえに立っている。有害な染料や安く買いたたいた労賃でつくった安物は大量の産業廃棄物を生み出すから地球全体のコストを考えるとかえって高くつく。自然や労働力が有限であるという観点にたち、消費者が望むような製品をつくろうという観点に立てば、19世紀の産業革命以来の工場のシステムや管理体制は大きく改変されなければならない。

 産業革命モデルに基づいた技術革新や管理体制がゆっくりとしかし確実に破壊されつつある。あたらしい技術に支えられた産業体制にとってかわられつつある時代に私たちは生きている。

 そうなれば当然旧来のビジネスモデルやマーケティング戦略も見直され、徐々に破壊されてゆく。「サステナビリティ」のコンセプトに基づいたビジネスモデルによる第二の産業革命はファッション産業でも進行しつつある。

 その思想的バックボーンのひとつをつくっているのはカウンター・カルチャーの思想だ。反戦運動や商業主義への対抗運動として出現したヒッピー文化やパンクなどのサブカルチャー、有機農業やサステナビリティを主張するリサイクル運動などは大きなカウンターカルチャームーヴメントの流れとしてとらえられる。その一端を担うのがファッション産業においては従来のハイファッションを破壊した「貧乏人ルック」の登場だ。

ハイファッションのコンセプトをかえた「貧乏人ルック」

 1980年代はラグジュアリーブランドがグローバルビジネスとして展開された時期でもあった。それを可能にしたのが大量生産システムだ。高級ブランドビジネスがグローバルマーケットをみすえ、従来の「安物の既製品」から均質的に、しかも大量に生産しうる「高級品」へと生産体制を整え始めた時期は1980年代だった。

 この時期、それまでファッションの僻地とみなされていが日本からハイファッションの中心地のパリに殴り込みをかけ、「貧乏人ルック」を定着させた3人の日本人デザイナーがいた。カワクボレイ、ヤマモトヨージ、ミヤケイッセイだ。

 彼らのトレンドは80年代の経済的停滞の中でワーキングクラスの若者層を中心に勃興しつつあったストリート・カルチャーの動きに連動するものだった。ストリート・カルチャーから派生したパンクやロック、あるいはヒップホップが世界を覆いつつある時代にパリのハイファッションに挑むように「貧乏人ルック」が出現した。その衝撃は既成の高級オートクチュール(高級仕立て服)の概念を突き破り、ハイファッションとはなにかを問い詰める契機となった。

 それまでは「高級なよそいき服」だけがファッションだった。あたかも庶民の日常にはファッションがなく、しかも庶民が買えるよそいき着はパリのハイファッションの安物コピーでしかなかった。そこにあえて「穴あき服」やつぎはぎの服、「刺し子でつくった防空頭巾のコート」「黒一色の忍者のような服」を登場させ彼らはハイファッションの価値転換を迫った。そして日常を非日常化する「よそいき着」と「普段着」の垣根を超えるファッションが提示されたのだった。それは90年代からはじまるグローバルファッション時代の幕開けを告げていた。

「貧困の美学」とファッションの「民主化」を支える大量生産

欧米を中心とするハイファッションにとって、日本は「辺境の地」だった。そんな周縁からパリというハイファッションの中心にやってきた3人のデザイナーたちがいた。のちに「貧乏人ルック」「黒の衝撃」などと呼ばれることになった全く異なったスタンスのファッションを彼らはもちこんだのだった。

 特に激しい衝撃を与えたのはカワクボレイだった。華やかな色彩とゴージャスなドレスに埋め尽くされるキャットウォークに慣れきっていたメディアはカワクボのショーで異様な光景を目にした。穴あき服、ノーメイクで無表情な長身のモデルたちがキャットウォークを黙々と行進してくるのだ。まとっているのは衝撃的なほどボロい、ファッションとよべない、服でないような服だ。虫食いの大きな穴がそこかしこに空いたセーター。擦り切れそうなかぎ裂きがあるズボン。左右が非対称な長さのジャケット。

 パリコレクションを冒涜する行為だと激しい非難が巻き起こった。かと思うと、その意図を熱心にサポートし、鮮烈な「黒の衝撃」「パールハーバー・アタック」と評する批評家たちもいた。激しい賛否両論のなかで、異様なファッションは一層の注目を浴び、ストリートファッションを見慣れた若者層からは熱狂的な支持を得てゆく。「貧乏人ルック」はやがてストリートファッションのサブカルチャーによって増幅され、ファッション界を席巻してゆくトレンドとしてグローバルなトレンドを形作ってゆく。

「貧乏人の服」は職人の技がつまっている「ぜいたく服」だった

 一時の衝撃が収まって個々の作品を見なおすと、人々は「貧乏人の服」が実は周到に計算された美学に基づいていることを発見した。無造作に穴があいていたりヘムラインの左右が非対称だったりするようにみえた服は、実は巧みなカットを駆使し、しっかりした縫製で仕上げられていた。穴あきは実は織り糸の段階からわざわざ不均等に編んでひねりをくわえたものを織っていたり、ひたすら黒であるかのように見える黒が墨の濃淡のように青みがかった微妙な色づかいのトーンを重ねたものだったりした。「貧困人ルック」は手がかかったまぎれもない「高級品」であり、ブランド品がもつ品質をそなえた美学の結晶だったのだ。

 衣服が欠乏する戦時中に育ったカワクボやヤマモト、ミヤケらは、当て継ぎや刺し子を使ってモンペやキモノを繕い、防空頭巾をかぶっていた父母や兄弟を見慣れていた。母や祖母が丁寧に当て継をしたズボンを父や兄弟がはいているのをみて育ったのだ。物資が足りないなかでも工夫して着ていたものは決して卑下されるものではない。むしろ愛され堂々と称揚されるべきものだ。質実剛健、節約、清貧といった意思のなかにこそ美はあるはずだ。そこには商業主義を排し、徹底して手作りと古着にこだわったパンクとの親和性があった。

パリの高級ファッションが倦怠期にあった中、「貧困の美学」は80年代のグローバル・ファッション産業を牽引するトレンドをつくりだし、高級ブランドの大衆化路線を主導する流れとなる。若者層からの熱烈な支持は、もはや固定的な階級自体が崩壊し「ハイファッション」が表現すべき「ハイエラルキー性」や「エリート主義」が時代遅れとなっていたことを示していた。

そんな「貧困の美学」の前衛性にグローバルファッション産業は飛びつき、またたくまに消化していった。21世紀にいたるもその流れは続き、高級ブランドの大量生産による大衆化、あるいは「民主化」の動きは加速されている。

 高級品でありながら、希少ではない。高額だが高そうにはみえない流行の品を求める富裕層や若者は世界中に出現し、旺盛な購買意欲を示していた。ラグジュアリーブランド産業は彼らの消費意欲を満たすために大量にブランド品をつくらねばならなかった。それを可能にするために資本は巨大化し、ラグジュアリーブランドの寡占化が進んだ。大量生産品でありながらぜいたく品と普及品を分けるマーカーは、ストーリー性だった。「生産に追い立てられた労働者ではなくしっかりした職人がつくったしっかりした製品」「それぞれのモノがもつ歴史や文化的な背景」がインターネット世代にもアピールする力だった。

かわらぬ「ブランド」品としての革の魅力

ブランドとはそもそもアイコンだ。歴史に残り、人々に知られる存在だ。したがって、ブランド、あるいはアイコンは企業がもっているものに限定されない。個人そのものがブランドになることもある。原子物理学者のアインシュタインは彼自身がブランドとなっていて、彼の業績の一端を商業化するために彼のイメージは役に立つ。彼の写真をプリントした灰皿が価値をもつのはそのためだ。有名な賞をとった菓子職人自身がブランドとなり、推薦した菓子ショップがお墨付きをえることもある。人間国宝がつくった刀はブランド化する。GEをつくったエジソンのストーリーによって固められたGEブランドやいつも信頼できる車をつくっているトヨタの軌跡を固めたトヨタブランドなど、ブランドはいってみれば特異な人間あるいは組織の軌跡をストーリーとして固めたものだ。

 それに対し、なにを「ぜいたくだ」と感じるかは人によって異なる。ぜいたくさとはとらえどころのない体験だが「はやり」を超えて長持ちする。一杯の紅茶を緑の生い茂る自宅の庭先で味わうことさえできれば「ぜいたくだ」と感じるかもしれないし、高名な科学者の話をたったひとりで聞くことができたら「こんなぜいたくなことはない」と感動するかもしれない。その人の深い経験や、個人的な体験が書き込めるものがぜいたくさの価値だから時間を超えて長続きする。だが同じモノや体験にたいして「素晴らしいぜいたくな体験」を語ることが増えればそれがブランド化、流行化してしまうかもしれない。流行は人々があるモノや体験を「すてきだ」と感じたり「ぜいたくだ」と感じたりすることを共有することで生じてくる。流行のファッションに身を包んでまちを歩けば人々が振り返るかもしれない。だがすてきだと思っていた品物はやがてすり減ってくるし気に入っていた服や帽子はボロくなり飽きてしまうかもしれない。ところが流行に左右されがちな服や帽子にくらべ、革製品はすり減りにくい。驚くほど長持ちする。しかもぜいたくだ。

 ぜいたく品には流行に乗りつつもそれを超えて使い続けられる息の長さがある。使い込めば使い込むほど愛着もでてくるのがぜいたく品の革だ。10年や20年前に発表された特定シーズンのエルメスやディオールのバッグが高値で売れる所以だ。最高の革を選び、ひと針ひと針職人が縫ったというストーリーはエルメスのバーキンやケリーバッグについてまわる。

 21世紀のインターネット世代は、変わるモノと変わらないモノの両方をブランディングに求めている。たとえインターネット世代であっても「ぜいたくさ」「歴史と伝統」「反逆と孤高」といった古くて新しいストーリーをモノに求める限り、革はいつまでも魅力的な存在なのだ。

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