二一世紀のファッションと揺れ動く「倫理」

https://www.vam.ac.uk/blog/projects/dumb-animals-lynxs-campaign-against-the-fur-industry

「アンチ毛皮組織」と「世界皮革会議」

 2019年の春、私はニューヨークで開かれた世界皮革会議に出席しようとしていた。あらかじめ1か月も前から許可されていなければその会議に参加できないことに1週間前に気づいてパニックになった。メールで専門家からの推薦状をもらい、頼み込んでようやく開催するビルへの入場許可証を得ることができた。だがそれほど厳重な規制をするのはなぜだろうといぶかしくも思った。実は「アンチ毛皮組織やヴィーガンたち(乳製品を含め、動物性たんぱく質を一切とらない人々)がやってきて会議をぶち壊しにする恐れがあるから」だという。だから「入口を二か所にわたって厳重にチェックする必要がある」というのだ。毛皮反対運動の先鋭化に改めて驚かされた。

 毛皮を身にまとうのは昨今あまり歓迎されない。環境保護団体にとって生き物を毛皮のためだけに殺すことは非倫理的以外何ものでもない。だが難しいのは人間が食するために牛や馬を育てていることだ。屠って食べてしまったあとで残る皮はなんとしても有効利用しなければ食された動物の霊が報われないとすら思う。動物を捕まえたり屠ったりする仕事で生業をたてている人々もいる。だが私はというと、革靴はかまわないが毛皮を着るのはどうしても気がすすまない。

 子どもながらに恐怖したもの

子どもの頃、母の実家には怖い部屋がふたつあった。ひとつは雄鹿の首が飾ってある部屋だ。柱の上部に固定された鹿の目にはガラス玉がはいっていて、雄鹿が向こうの世界からぬっとこちらの世界に首をだしていた。怖いので日中でもその部屋を決して通らないようにした。どうしても通らなければならないときは、この鹿をみないようにひたすらうつむいて、鹿のことを考えずに小走りに通り抜ける必要があった。

 さまざまな鳥の剥製が飾ってある部屋も恐怖だった。その部屋とわずか襖一枚を隔てて寝なければならなかった。夜が近くなると忌避感が恐怖に変わる。夜な夜なあの鳥たちが生き返ってこちらを襲ってこないとも限らない。ひたすら隣りの部屋のことを考えないようにして決死の覚悟で眠りについたものだ。

 極めつきは数年に一度、遠目からみるだけの虎の頭がついた毛皮だ。これが庭先に出てきて、その上に武具が並べられる。武具には興味があったものの、わざわざ虎の皮の上においてあるものに近寄ることなど、思いもよらない。私にとって、死んだ動物の毛皮や羽毛は、それだけで畏怖を感じさせるものだったのだ。

毛皮の霊力と逆襲

 ところが、のびしょうじさんによると、毛皮は日本人にとっては魔除けの意味があるという。日本画でみる侍たちの多くが、虎の毛皮の上に座っているのはそのためだ。闘いの場の近くにある陣地で、虎の皮の上に置かれた低い椅子に座っている大将がいる。まさに虎の皮によって守られているのだ。

 お守りとしての機能をもつからという理由で、昔はどの家にも必ず一枚は毛皮があったという。なにも大きい敷物である必要はなく、小さな切れ端くらいでもよい。山にはいる猟師は必ず毛皮をお守りとして身に着けた。熊や虎の皮を被ると人間の匂いも消してくれる。そうやって、死して後も猟師の身を守ってくれるのが毛皮だった。

そんな歴史を体験的に知るのびさんにとって、毛皮はファッション・アイテムなどではない。霊力(スピリット)を秘めたお守りだ。だからこそ、昨今のアンチ毛皮の風潮は到底受け入れ難い。動物の毛を毟り取って作った残虐な代物だと非難されるだけでそこに霊力が宿っていることが忘れ去られている。これでは日本古来の信仰が台無しだ。毛皮に霊力がついているという怖れの気持ちが失われていく。「毛皮を卑しめている」とすら感じる。のびさんは憤懣やるかたない。

そもそも霊力は花や穀類にも存在している。そう人間は原初的には考えていた。無論人間が死んでも次の世界はあると考えていたからこそネアンデルタール人でも埋葬するときに死者にたくさんの花を手向けて葬った。豊穣を願ってさまざまな儀礼をおこない、自然に働きかけて大漁や豊作を祈る。花や穀類よりももっと霊力が強いのが動物類だ。魚類より鳥類、もっと人間に近い四つ足動物になるとさらに霊力は強くなる。インドの大学で「平和学」を講じる教授と話をしたとき、「花や穀物より人間に近いのは四つ足の動物だから、これらを食べてはいけない。共食いに近くなるから」とか「できれば魚も卵も食べない純ベジタリアンがいい」といわれた。そういう彼は菜食カーストのバラモン出身ではなく、「だがどうしても時々鶏肉やマトンへの誘惑が断てずにいる」と正直に私にノンベジタリアンであると告白したものだ。

私が南インドの片田舎でフィールドワークのためにフィールドワークをするために間借りしていた家は純ベジタリアンのバラモン教授の家だった。「家のなかでは絶対に非ベジタリアンの食物を食べないでほしい」と強く約束させられ、卵も禁止された。外で目玉焼きを焼いている出店があると食べたいと思い、その前に立ってじっと見つめてみたりしたのだが、連れのバラモンの若いリサーチアシスタントの女性[1] は軽蔑の眼差しを向けるや否や、「さあ、いくわよ」と冷たかった。「私はバラモンという儀礼的に高いカーストの出身だ」。という矜持があるから、皮革をつくるカーストの人々を「低カーストの穢れた人々」と一言で片付けてしまう。彼女にかかると公務員や教員、エンジニアなどはホワイトカラーで汚れがない仕事だから、バラモンにはふさわしい。「ケガレ」が発生する仕事をしてくれる人々が社会をまわしていることには目を向けない。だが実際に屠殺の現場をみると私も動揺してしまう。

英国の皮なめし人協会の紹介で2015年にチェシャ―の屠殺場を訪問したときのことだ。トラックで運ばれてきた牛はクレーンで吊り下げられてからすぐさま麻酔銃を撃たれ、生きたまま皮を剥がれた。ただならぬ気配を察して暴れる牛たちが次々と吊り下げられ麻酔銃を撃たれていく。「自分がこの牛だったら」と考え戦慄してしまう。だが生きたままの牛の皮を鋭いナイフ一本できれいに裂いていく熟練の職人は冷静沈着で鮮やかそのもの、怖れを抱きながらもその技には感心するしかなかった。

牛の皮を取ったあとの肉は食物になり敷地内の加工肉店でも売られている。「新鮮なハムが食べたい」と思う人々が遠くから車を飛ばしてやってくる。きれいに飾り付けられたハム店をみて実存的な矛盾につきあたる。私たちは普段牛や豚を食べながら犠牲になった動物たちを弔わずに単なる食べ物として食べている。だがかつては豊穣の「感謝祭」にみられるように肉を食べることがぜいたくで晴れがましいことであり、もっと以前は肉は狩りの獲物でめったにありつける存在ではなかった。狩りをする男たちの集団は、時として逆上した動物からの仕返しにも遭遇したはずだ。恨みがましい目でみられて怖れを感じたこともあるはずだ。他方、今日の食肉ビジネスでは動物をブロイラーにして肉をとるだけの為に育てる。両者の違いを指摘して今のブロイラービジネスを批判する人々がいるのはもっともなことだ。

ましてや何十匹もの生きた動物の皮を、肉を食べるためではなく、ただ毛皮を取る為だけに閉じ込めて育てるのは非道極まりない。育てられてもその肉を食べられることすらなく、非情にも生皮を剥がれて死んでゆく動物たち。彼らの命を粗末にしていると批判されるともっともだと思ってしまう。毛皮の為だけに動物が殺されるより、食用になってくれた動物の死を無駄にしないようにするのならば少し気持ちも軽くなる。さらに譲歩して食用になる動物たちの毛皮さえ利用するほうが理にかなっている。毛皮を有効利用することは動物の命を文化として活用することではないのか。

だが人間は食べるより以上の肉をストックしている。動物を屠って食べる虎やライオンは必要以上は狩らないが人間は一年中肉や魚を保存して食べられるようにしている。食物は工業生産化され、人間の業はさらに深くなった。

現代人は一年で、一人あたり牛や豚の肉を何頭分も食べている。このあたりを考えてゆくと、どうしても人間存在の業の深さに気づき、ディレンマに陥ってしまう。そして私たちは霊的なものへの畏敬の念が薄れてきているという気がして落ち着かなくなる。生き物を狩って生業をたてている人間でも、自分たちが食べる以上の狩りや動物の生育をしているが、それを強いているのは大量消費社会だ。

 のびさんから毛皮の霊力についての話を聞いて思い出したのが、中央アジアのシャーマンの儀礼だ。動物の神様を呼び込むシャーマンは、熊などの大きな毛皮を頭から被り、憑依し、動物の霊そのものになる。そして身体を揺らしながら託宣をおこなう。被っている毛皮は獣じみていて生々しく、とても「なめらかで触り心地がよい」代物ではない。だが、これを被ることによってシャーマンは神である動物の霊と交信できる。

そう思い至ると、エスキモーやネイティブアメリカンたちが毛のついた皮に強い思い入れがあるのも納得できる。だが残念なことに、白人たちがネイティブアメリカンたちから毛皮を入手する時、ほとんどの場合、毛皮は装飾品、あるいはファッション品としての価値しか考えていなかった。呪具としての毛皮の役割を理解していなかったから、ネイティブアメリカンたちからスピリットについての話を聞くこともなかった。毛皮に霊力がある事については無関心なまま、それを欧州に持っていき、贅沢品として高値で売り続けた。

毛皮の霊力について知っていたら、白人たちの毛皮の扱いはもっと違っていたかもしれない。だが、その力を知らない人々が単なる装飾品とみなして身にまとうと、かえって毛皮から逆襲されることになる。なにしろ毛皮のもとの持ち主は生き物だ。毛皮は「呪力」を発揮し、人々を攻撃する。毛皮が欧米の人々に本格的に逆襲しだすのは、二〇世紀後半、アンチ毛皮のキャンペーンからだ。

消費者運動の先駆けをつくったアンチ毛皮キャンペーン

一九七〇年代からおこったフェミニズムの政治闘争のなかで、毛皮は恰好の標的になった。多くの女性たちが、意識しないままに実はアンチ毛皮キャンペーンのターゲットとなってしまった。高価な毛皮を「買ってもらえる」女性と「買ってもらえない」女性たちを分断すると考えたのだ。

「毛皮を買ってもらえる富裕な女性」と「買ってもらえない貧しい女性」とに女性を分断するのはよくない、という主張に大いに賛同したのが動物愛護派だ。フェミニストたちから援護射撃を受け、強いメッセージをこめたアンチ毛皮キャンペーンをつくりだした先駆けがリンクス(Lynx)という動物愛護団体だ。

一九八六年、リンクスが発表した一枚のポスターが高級毛皮メーカーに衝撃を与える。ハイヒールを履いた女性が片手で毛皮を引きずっている。その毛皮からは血が滴り、毛皮を引きずった床にはブラシで描いたように血痕がひろがっている。キャッチコピーも衝撃的だった。「一枚の毛皮のコートをつくるのに40匹もの動物が使われています。たった一人がそれを身にまとう為に」。このキャンペーンは大成功したが、その結果毛皮産業を衰退に追い込み消費者パワーの力も見せつけた。そしてインターネット時代へとつながる「消費者が主導する不買キャンペーン」の原型のひとつとなってゆく。

このキャンペーンは21世紀にも通じる新しい倫理をつくった。毛皮を着ることの晴れがましさ、華やかさよりも動物たちが毛皮だけの為に殺されることを是認するような「見識のなさ」は恥じるべきだという道徳観だ。女性たちは毛皮を買うことをやめ、クローゼットの奥深くに隠しておくか古着屋に売り払った。

だが毛皮が売れなくなって一番困ったのは実は毛皮産業ではなく、動物を捕獲して生活しているエスキモーやネイティブアメリカンたちだった。彼らの生活の糧が奪われてしまったのだ。そこで妥協が成立した。動物を罠にかけ、苦しませて殺すのは残酷だ。だから苦しみが少ない手法で捕獲し、やさしく屠殺する。食用の牛を麻酔銃で眠らせたまま処理するのと似た考え方だ。妥協と譲歩の産物のようにみえるが、実際のところ、人間は現実社会と折り合っていかなければなんとも生き難い。動物愛護家たちの言い分をつきつめていけば、結局べジタリアニズムどころか生きようとする人間の本能を否定してゆく事にならざるを得ない。動物を食べて生きるよりは命を絶つことのほうを選ぶだろう。人間存在の矛盾に悩んで自殺を選んだ実存主義の哲学者たちのように、あるいはインドのジャイナ教の聖者のようにならざるを得ない。ジャイナ教の聖者はベジタリアンだが、突きつめると生けるものの命を絶って我が命を長らえること自体が罪だという考えに至る。洞窟に身を横たえ、食事や水を絶って聖者は徐々に餓死してゆく。

一般のジャイナ教徒はそこまで過激ではないのだが、出家・在家を問わずべジタリアンで、卵すら食べない。虫を殺すからという点で農業を生業にできない。出家者は誤って虫を飲み込んでしまわないように大きなマスクをし、生き物を踏んで殺さないように箒で掃きながら裸足で歩いてゆく。食べ物は在家の信者の家をまわって物乞いして集めたものを食し、決して肉や魚には手をださない。日没以降は明け方まで水も飲んではならない。ほかの生き物の命を奪って生きる人間の存在は悪そのものだという罪悪感にさいなまれ続ける生き方だ。結局動物愛護者であればあらゆる動物性の食物は口にいれないことが望ましい。だが同時に人間には野生があり、時に動物を食べたいと願う。だから動物の屍を上手に処理して人間生活に役立てるようにしてくれる人々も太古の昔から存在している。

そして私たちが感じる「霊性」(スピリチュアリティ)のなかにはつきつめれば生きることに不可欠な「性」あるいは「エロスへの希求」もある。毛皮に包まれる人は毛皮からエネルギーを与えられているのかもしれない。毛皮をまとうシャーマンは霊力をもつとされていたのは毛皮からもらう生きるエネルギーゆえかもしれない。だが、そんな動物がもつスピリチュアルなパワーへの畏怖をもたない人々に毛皮をとりまくられ、絶滅させられた獣たちもいる。

世界を駆け巡った毛皮ビジネス

美しい哺乳類の毛皮は古くから珍重された。特に大きなマーケットは中国とロシア・ヨーロッパ世界だった。中国や欧州の皇帝や王侯貴族は威厳をつけるために毛皮のついた帽子やガウン、コート、ブーツなどを着用していたし、毛皮を床に敷いて権威の象徴にもしていた。歴代の中国王朝の支配者たちは最高級のクロテンやラッコに目がなかった。

日本も平安時代には、帝も貴族たちも渤海から持ち込まれる高級なクロテンに心を奪われ、争奪戦をおこしていた。暑い夏の盛りにクロテンの毛皮を8枚も重ね着して渤海からの使節を仰天させた「超」トレンディ―な皇子もいた。宮廷が毛皮争奪戦で大混乱し、ついにはランクによって身に着けられる毛皮の序列をつけなければならないほどだった。

富裕層が望む最上級のラッコの毛皮をもとめ、ヨーロッパ人は東奔西走し、ついにベーリング海峡近辺までやってきた。そこでラッコを細々と取っていたアイヌに目をつけ取引しようとした。日本に欧米人たちがやってきて開国を迫った理由のひとつも、日本の近海や北海道でとれる毛皮欲しさだったともいわれている。

この毛皮ビジネス全体にもっとも精通していたのはロシア人で、毛皮を採るためにシベリアの植民地化を進めた。広大なシベリアの森をコサックを使って獣を捕獲させ、毛皮を採りまくった。キツネ、オオヤマネコ、リス、ラッコなどは美しい毛並みで珍重されたので、またたくまに獲りつくされてゆく。獲物が減ってゆくと、毛皮商人たちは、今度は北アメリカや南シェットランド島などにも手を伸ばしていった。ヨーロッパ人は5世紀から11世紀にかけて毛皮ビジネスで稼ぎまくり、重要な輸出産業に育て、富を得た。

彼らは毛皮を求めてさらに南北アメリカ大陸まで手を延ばしてゆく。北アメリカは広大な森林に囲まれ、野生動物の宝庫だった。一七世紀から一九世紀半ばまで、ヨーロッパ人たちはバイソンやキツネ、ビーバー狩りに血道をあげ、動物たちを絶滅の危機に陥れる。成功した毛皮商人のなかからは富豪も出現した。若くして米国にやってきたドイツ系で英国生まれのジョン・アスターだ。毛皮ビジネスで大儲けし、アメリカ人となって一代でアスター財閥をつくりあげた。

「フェアトレード」の認証は「倫理性」を保証するブランディング

いかに高価であれ、倫理性を満たさないものであれば負の価値がつけられる。ネガティブなイメージがついてしまえば消費者は離れてしまう。トイレにさえ自由にいけない悪環境で働かせ、火事で脱出できずに焼き殺されるような場所で作られているファッション衣類など、いかに安かろうと買いたいとは思わないだろう。そのような倫理性を買い求める商品のなかに追求するのがフェアトレードだ。19世紀のフェアトレードとは奴隷の安い労働力を搾取してつくられたモノを買わない、貧しい農民たちがつくった茶を適正な価格で買い上げて彼らの生活を守るといった運動に端を発し、二〇世紀には貧しい人々がつくった手工業品や、農薬をつかわない農産物を適正な価格で買い上げる、といった運動へと発展した。1980年代、フェアトレード協会が設立され、一定の基準を満たした製品であることを示す「ラベル」によるパッケージングとブランディングが始まった。皮革や毛皮を使った高額商品の場合、このようなフェアトレードによって守られる労働者の権利だけでなく、素材となる動物への配慮を要求される。だが、万が一その加工プロセスにケチがついたらメーカーはどのように解決するのだろうか。「エルメスのバーキン」をめぐる女優バーキンとエルメスとの間のいざこざがその実例を提供している。

ブランドの「倫理性」をどのようにして守るかーバーキン物語ー

 エルメスは高級皮革製品で売ってきたブランドで、一九世紀初頭にドイツ生まれのティエリ・エルメスがパリに開店した馬具店だ。馬具の質のよさとティエリの社交術で店はまたたくまに評判となり、王侯貴族の御用達となっていった。そこでティエリは馬の鞍や鞭などから徐々に小物類の制作にも手を染め、さらに成功を収めてゆく。そんなエルメスがハンドバッグ部門に進出し、モナコ王室のグレース・ケリーが持つ「ケリー・バッグ」を発表した。この高級品シリーズは従来のパーティバッグよりもサイズが大きく、女性のニーズをつかんで大成功を収める。

だがもっとも成功したシリーズは「バーキン」と呼ばれる大型のハンドバッグのシリーズだ。作られたのは一九七〇年代、名前はイギリス出身の女優で歌手の ジェィン・バーキンに由来している。エルメスの当時のCEOだったジャン・L・デュマは、たまたま飛行機でバーキンの隣に乗り合わせた。話をしている間にバーキンから新しいバッグ制作への要望を受ける。たくさん収納できるように何個もポケットがついたしっかりした大きなバッグが欲しい。当時エルメスが販売していた一番大きなバッグはケリー・バッグだ。従来の女性用のバッグのサイズよりは大きいがバーキンにはこれすら小さすぎた。

要望にこたえてつくったのがバーキンだった。高級バッグとは小ぶりで華奢なつくりのものーーといったそれまでの思い込みを打ち破った画期的なキャリアウーマンのための大型バッグでたちまちエルメスのトップ商品になる。だが、ここで大きな問題が発生する。

バッグの「バーキン」には牛革、子牛革だけでなくクロコダイルの皮で作られているものもある。数百万円台から数千万円の価格帯があるバーキンのなかでももっとも高価なものだ。だがバーキンは動物愛護活動家でもあった。バッグの革の製造過程でクロコダイルたちが残酷な殺され方をしていると動物愛護団体のPETAから聞かされ、激怒する。そんな残酷な殺され方をしたクロコダイルの革をつかったものに自分の名を冠することは断じて許せない。バーキンは強く抗議し、自分の名前を使うことを差し止めようとした。驚いたエルメス側は、批判をかわすためPETAがリストアップした「残酷な殺し方」をする原皮調達業者との取引を止めると宣言した。

バッグのイメージが傷つかないようにエルメスは速やかに動き、適切な処置をしたのだ。その他のエルメスの提携業者に対しても、クロコダイルたちを最高水準の倫理観に従って丁寧に取り扱うように求め、それを確かめるために調査員を定期的に送り込むことにした。これでようやくバーキンは矛を収めたが、この一連の騒動はバーキンというバッグをすっかり有名にすることにも役に立った。

21世紀の贅沢品の「倫理」は動物だけでなく途上国の工場運営にも波及する。労働環境もまた厳しくチェックされる。欧米の大ブランドメーカーは契約している途上国の工場に毎年専門の係員を派遣し、労働環境をチェックする。皮革製品は危険な薬剤を使っていないかどうかも事前にチェックされる。たとえば革を漂白するホルマリンの使用は先進国では禁止されている。クロムでも溶液として直接人体に触れるのは危険だから洗浄用ドラムも使い終わってから徹底的に洗浄しなければならない。そんな危険な液体が流れる床をゴム長靴すら履かせずに裸足で作業をさせられている若年労働者がいる。それを誰かが撮影し、インターネットにアップロードしようものならば瞬時に大きな問題になる。「この工場から革を買っているのはどのメーカーだ!」ということになり、インターネットの住人たちのサーチがはじまる。そのメーカーはまたたくまに世界的な不買運動に晒される。倫理的に正しいモノーそれがぜいたく品の定義の重要な一部となってきている。だがいつの時代でも重要なのはモノと人の間にできる関係性に注目することだ。

ぜいたくな品は人とモノとの対話に支えられる

高級ブランドのCEOやアートディレクターたちはつねに「なにがぜいたく品か」を規定する必要に迫られている。たとえば九〇年代にエルメスのCEOだったピエール・デュマはこの問いへの答えを公にしている。家業を一九九一年についだデュマはぜいたくブランドの家系に生まれた人間としてはちょっと変わった経歴をもっていた。千九百七〇年代から八〇年代にかけてはヒッピーとして世界を遍歴した。Tシャツとジーンズにバックパックのいで立ちで、砂漠の民や森の民と対話する旅を続けた。後年、彼らがつくったモノを買い上げることで彼らの生活を支える行動に出たとき、すでに彼はぜいたく品のブランディングには倫理性が不可欠であることを見抜いていた。しかしそれだけではない。モノに宿るストーリー、スピリットが必要だと彼は知っていた。

CEOになる前に、彼の祖父はデュマをエルメスの傘下にあるラッティ社の工場に送り込んだ。一九世紀から服地をつくっている歴史ある工場だ。そこで生地の織り方、染め方、パターンのデザインなどを基礎から学習した。エルメスが家業のなかで培った高級な「馬具」や「鞍」などをみてきた経験も役立った。そしてCEOとなったデュマは新しい「ぜいたくさ」を定義しようとする。

ほんとうに贅沢なものとは何かを問い、それはモノに宿る歴史、ストーリー性を大切にすることだと宣言する。「ぜいたく品とよばれ高額で売られていても、三週間でだめになるのも一〇〇年持つ持つものもあります。質の高い物をつくるということは、なにが「質」であり、それをどうやって達成するかを自分自身が定義してゆくことです。ぜいたくさとは何かつきつめることは、過去を知り、現在に生き、未来を見据えるということです。生地の縫い目がしっかりしているとか高級な革を使っているとか、そういういうことではありません。仕上がった品に触れるとき、その触り心地が違うのに気がつくか、縫うときに目をつぶっても縫えるか、そういう職人技に気づけるかどうかということです。製品が自分自身を表象するモノたりえるか、モノが出来上がりつつあるとき、作っている手が、モノが語っていることを聞き取れるかどうかです」。

デュマはモノに宿るさまざまなストーリーを理解できるかどうかという「所有するひと」の主体性も問われると述べる。そのような「ぜいたく品」を私たちはある程度享受できる時代に生まれている。18世紀からの「産業革命」で社会がなしとげた機械化のおかげだ。量産体制なくしては私たち庶民の「ぜいたく品」「ブランド品」市場は生まれなかった。そして「ぜいたく品」「ブランド品」時代はファッションという周期の短い流行をつくりだすことによって生まれたのだ。


>>>ファッション産業と量産体制