ファッション産業の光と影-国家政策からSDGsへー

オートクチュールは量産体制の生みの親

  現代の高級ブランドの「ぜいたくさ」を支える倫理的な価値規範だけではない。現代では製品管理にサポートされた量産体制にも支えられている。1970年代以降、世界中で出現したニューミドルクラス(新興中産階級)は自分たちのステイタスシンボルを必要としていた。そこで高級ブランドは生産体制を刷新し、グローバルに拡充した。そしてグローバルな販売拡大作戦にでた。衣類(アパレル)もよく売れたが、なによりブランドものとしてはハンドバッグや靴、鞄など長もちしてより高額なものがステイタスシンボルとして好まれた。ハンドバッグなどの鞄類はニューミドルクラスのステイタスシンボルとして絶大な人気を集めたのだ。

 だが、ブランド品を手に入れる人々は今も昔も必ずしもリッチだとは限らない。アパートに住み、繋ぎの服を着てガソリンスタンドで働きながらポルシェやディアブロをローンで買っているかもしれない。アパートの部屋がグッチやエルメスのバッグでいっぱいになっている若い女性もいるはずだ。デパートの地下で働く非正規雇用の女性もお金を貯めてヴィトンのバッグを買おうと思うことがある。それをもって休日はホテルのグリルで食事をすることも可能だし若い女子学生もアルバイトで貯めたお金で高級ブティックのショッピングを楽しむこともできる。

 現代ではぜいたくな服、ぜいたくなハンドバッグはごく一握りの人々に占有されているわけではない。それらは大量生産されている。そしてその大量生産の体制こそ、パリで始まったオートクチュール(高級注文服)のメゾンに由来している。メゾンは、「ミシン」による量産体制にサポートされていた。機械化がなければ、デザイナーたちは依然として王侯貴族の邸宅に注文伺いをしにいく仕立て屋だったろう。本章では18世紀末から徐々に始まっていたファッションの産業化とそれに伴った「量産体制」について考察し、20世紀のブランドと量産体制の深いかかわり方について考えてみたい。

「高級ブランド」の量産化はいかにしてはじまったか

 現在でも高級ブランドは必ずと言ってよいほどパリに店のひとつをかまえる。パリはファッションの中心地だからだ。そのような「パリ」のファッション体制がはじまったのは二〇世紀初頭だ。それまではデザイナーは独立した職種として存在せず、仕立て屋兼任だった。王侯や貴族は彼らを自宅に呼び、ひと針ずつ縫子に縫わせた文字通り手作りの高級注文服を制作させていた。だがこれだと極めて裕福な一握りの人々しか相手に出来ない。そこに風穴を開けたのがメゾンだ。フランス政府がファッション産業育成のために考案したシステムだ。

 このシステムは顧客の家に行くのではなく顧客が店に足を運ぶ。これでメゾンはもっと多くの顧客をさばくことが出来、機能的な生産体制を敷くことができる。

 画期的なのがミシンの登場だ。ミシンは縫製を手縫いから解放し、スピーディに縫製できるようにした。縫製ミシンを備え、お針子を擁したメゾンがパリに登場するのは二〇世紀初頭だ。当時フランス政府はファッションを産業として育成しようという戦略をもっていた。

 ファッション産業を育てる為、フランス政府はある面解放的でもあった。メゾンはパリに開店しなければならないが、メゾンのオーナーはフランス人である必要はない。実際メゾンの第一号店は英国人のチャールズ・ウォルトだった。一八五八年にパリにメゾンをかまえたウォルトは商売がうまく、如才がなかった。服飾だけでなく自分の名を冠した香水を開発し、販売することで「ちょっとリッチな気分を味わいたい」大衆の願望に応じた。これが当たったのを見て、他のメゾンも真似て香水を売り出すようになる。

 メゾンを開店するにはオートクチュール協会からつけられた条件に従わなければならなかった。二〇名以上のお針子が雇われていること、年二回の新作コレクションを発表すること、シーズンごとに一定数以上のデザインを一般に無料で提供することなどだ。

 公開されたデザインを真似て一般の人々が布地を買い、流行の服を自作したり近所の馴染みの仕立て屋に注文する。これで服地やパーツ、アクセサリー類の生産も喚起される。流行が変われば次々と必要な素材をつくりだすことになり、産業界自体が潤ったのだ。メゾンは王侯貴族におもねる必要のない「経営者」となり、新しい中産階級のためのビジネスを展開した。服を仕立てるお金さえあれば、王侯貴族でなくとも客になれる。顧客の邸宅をひとりひとり訪問するより店に足を運んでもらうほうが仕立て屋としては便利この上ない。ミシンとお針子をかかえる量産体制で、フランスのパリはこうして新しい方式でファッションの中心地となっていった。

国家政策としてのファッション産業

 流行現象はパリだけがつくりだしたものではない。パリ以前にも世界各地で流行は現れ、そして消えていった。上層階級が着用していた服や小物類を庶民がコピーして地域で流行させることもあったし、庶民の間で流行っていたものを上流階級が取り入れて洗練させ、全国に蔓延する流行をつくりだすこともあった。

 だがさまざまな「地域社会での流行」に基づいた服装が一気に「ダサく」思われるようになったのがパリのモード体制以降だ。欧州の人々は、発表されるその年の流行に敏感になった。これにあわせなければ流行のファッションに乗り遅れているとすら人々は思うようになっていったのだ。

 ファッション産業は効率のよい景気刺激政策でもあった。ファッション産業が興されると輸出が盛んになる。フランス国内を凌駕する大きなマーケットが欧州やアメリカに生まれることにもなる。おかげでフランス国内のさまざまな生産者や職人も潤う。服地や小物をつくる職人たちや様々なアクセサリーを扱う商人たち、服を縫う機械類を作る人びとにお金が入れば、生鮮食料品を売る肉屋や魚屋、八百屋までもが潤う。小金が出来れば家も建てるから大工にも収入がはいる。パリのメゾンのシステムはフランス全体の経済を循環させる役割を担ってゆくようになった。

 流行を作り出し産業とするためには宣伝戦略が重要だ。そこでファッション関連のメディアが登場する。宣伝戦略をする人々にもお金がはいるようになる。今日では当たり前になっている、ファッション界とメディアとの連携をはじめたのもフランスだった。フランスでは17世紀後半(一六七二年)にすでに初のファッション誌「メルキュール・ガラント」が発行されている。挿絵入りで流行の服装を解説してゆくメディアの存在によって流行の拡散体制も整備されていった。こうして一八〇〇年代までにパリは欧州の流行の中心地としての地位を不動のものとしたのだった。

 だがそんなパリの圧倒的優位も一九七〇年代を境に斜陽化してゆく。第二次世界大戦後からパリ中心のモードに反旗を翻しつつあったのがニューヨークだ。戦争中はパリから服飾品が入らずニューヨークの服飾界は一時苦境に陥った。だがこれはむしろニューヨークにとってはチャンスでもあった。若いニューヨークのデザイナーたちにチャンスをあたえ、ニューヨークファッションが登場したのだ。

 パリとは異なり、ニューヨークの女性たちは実用的で働きやすい、それでいてスマートにみえる服を望んでいた。有閑階級の夫人たちの為ではなく働く活動的な女性たちのためのファッション—。戦後この需要に反応したのはイタリアのファッション産業でもあった。欧州よりも多い富裕層と広範なミドルクラスを抱えるアメリカは彼らにとっても魅力的な市場だったのだ。

国家経済の復興を助けたファッション産業 

 第二次世界大戦の敗北によってイタリア経済は壊滅的な打撃をうけた。だがそこからイタリア経済が速やかに復興を遂げたのはファッション産業のおかげだった。この成功により、イタリアは戦後にはじめて農業国から工業国へとテイクオフを果たす。イタリア政府は米国のマーシャル・プランの復興支援を得て、繊維産業を中枢にすえた復興計画を策定していた。戦争で大打撃を受けた重工業に比べ、繊維工場は戦火を免れ、すぐに操業できる体制ができていたからだ。繊維工場の操業のおかげで機械部門も設備投資することができた。それらのサポートを得てファッション産業界はかつてない躍進を遂げた。この結果、イタリアは一九六二年には早くもアメリカへの借款を完済し、農業国家から工業国家へと脱皮をとげる。1974年には先進国首脳会議のG7にも加入し、先進工業国となった。

 イタリアのファッション産業のターゲットは米国だ。米国は大きな市場だったしイタリアファッションは米国の女性たちにも魅力的だった。フランスのファッションとは「違った」魅力があったのだ。古風なバロック調で、色合いもパリとは違う。価格もフランスのものより安めだ。金具や生地、付属アクセサリーがイタリア独特なデザインで、服は丁寧に縫製され、組み合わせが出来るよう、服は上下が分かれているものが多かった。ベルトや靴、バッグもセットで提供されていて手持ちのものとも合わせやすい。ファッションが高額なものという従来のイメージを覆したイタリアン・ファッションは1980年代以降の既製服文化の一角をつくりあげていった。

 イタリアン・ファッションを支えていたのは繊維産業だけでなく、ギルド(職人組合)の職人たちでもあった。革命でギルドの多くを潰してしまったフランスと異なり、イタリアには地域に根を張ったギルドは二〇世紀まで残っていた。フランスのファッションの下請け的地位を抜け出てイタリアンブランドで勝負できるようになったのが戦後だ。そしてその幕開けはフィレンツェで開催されたファッションショーに端を発していた。

 フィレンツェで催された一九五一年のファッションショーはその後のイタリアン・ファッション界の方向性を示している。それを企てたのはジョヴァンニ・ジョルジーニだ。

 フィレンツェ出身の貴族の家系に生まれたジョルジーニは欧州とアメリカを行き来するファッションメディアの仕事をしていた。そしてかねてからイタリアン・ファッションをトータルコーディネーションとして売り出したいと考えていた。そこでフィレンツェの自宅をファッションショーの会場にして、アメリカからメディア関係者やバイヤーを招待した。このファッションショーは大きな反響を呼び、フィレンツェのファッションハウスは大量のオーダーを受けた。

 フィレンツェとその周辺の産業振興に強い関心を抱いていたジョルジーニは、あえて新進のデザイナーたちをフィレンツェの内のメゾンから推薦させた。そして靴やベルト、バッグなどの小物類もすべてフィレンツェ周辺の店や工場から調達した。これだとバイヤーは全てをセットで誂えることが簡単に出来、走り回らなくてよい。目新しいデザインとテイストだけでなくその便利さがバイヤーたちの気を惹いた。

 フィレンツェに近い革づくりのまちという強みを活かし、このファッションショーで使われた皮革小物をつくっていたのがサンタクローチェ・スッラルノ(略してサンタクローチェ)だ。この地域が高級な皮革産地として世界に知られるようになるのはこのファッションショー以後だ。フィレンツェの小規模なブティックからのありとあらゆる小うるさい注文に応じて高級革製品を作り続けてきた彼らの努力がやっと報われたわけだ。イタリアン・ファッションの知名度が国際舞台で高まるにつれて、以降はサンタクローチェの知名度も増し、高級皮革製品の産地として世界に知られてゆく。ここには大きななめし工場はほとんどなく、中小のなめし工場が多いので少数のオーダーでも小回りもきく。国外からの評価が高まるにつれ、サンタクローチェの地域全体に高級イメージがついてくるのだが、それを悪用して現実にはそれほど質のよくない皮革製品を輸出する工場もなかには存在していた。

 国家の富の蓄積に貢献し、地域経済を盛り立てることはファッション産業のプラスの側面だ。だが、しばしば皮革やアパレル関連産業の工場でみられるように、なかには労働力の搾取という負のイメージもつきまとっている工場もある。それがごく一部の企業の話だと思いたいのだが、高級皮革を産出するサンタクローチェの一角でもそれは起こっているらしい。

現代の皮革工場の「光と影」

 イタリアは世界の皮革づくりだけでなく、世界の皮革製造機械の50%を作っている。ヴィゼンザ、アルツェニャーノ、ソロフラなど数か所の皮革産地がイタリアに存在し、その多くが大規模工場だ。アルツィニャーノは家具や車のシートなど大きな革をつくるのが専門で、なめしから製革にいたるまですべてを自社工場で行える企業がある。なかにはクロコダイルから子牛の皮まで多種類の動物の皮を扱え、そうした工場では労働環境にも配慮し、リサイクルシステムも完備するなど完璧な工場運営をする。

 だが、必ずしもすべてのなめし工場がそのように健全に運営されているとは限らない。サンタクローチェのように小規模ななめし工場がひしめき、「高級皮革をつくる地域」というブランドが確立した場所ではその「地域ブランド」を利用してチープな革をつくって輸出しようとする業者もいる。

 だが「果たしてこれは本当にサンタクローチェ産といえるのか」と判断に迷うグレイゾーンもある。なかには半加工した製品を海外から輸入し、縫製だけを担当するメイド・イン・イタリー製もあるからだ。

 実際、インドやセルビア、ブラジル、チュニジア、モロッコ、ヴェトナムなどの国々で半加工させたものを輸入して最終加工し、イタリアで縫製することは日常的に行われている。だがEUでは、途上国の工場からの出荷物にもEUの環境基準であるISOマークを得た製品であることが証明されなければならない。第三者基準を審査する皮革協会から毎年環境保全や職場環境を調査する査定官がやってきて労働環境をチェックする。

 だが、イタリア国内で外国人労働者がイタリアの革をつくっている場合もある。そのなかには深刻な労働搾取も行われていることがあるのだ。それは皮なめしだけではなく、最終プロダクトとしてのバッグなどの縫製工場にもいえることだ。フィレンツェ近郊にあるプラト市は世界に「メイド・イン・イタリー」のブランド各社にアパレルやハンドバッグなどのファッション製品の縫製を担当する。だが、ここで働いているのはおもに外国人労働者だ。まちに外国人労働者が増えたのは一九九〇年代以降で、最初は中国の温州市出身の労働者だった。中国からの移民労働者は技術を獲得すると資金を貯めて独立し、イタリア国籍を取ってから工場主となり、同じ温州市から労働者をつれてきて自分の工場で低賃金で働かせる。そして出来上がったアパレルや革製品を「イタリア製」として中国などに輸出するという荒業をやってのけていたのだ。温州市出身の中国人は同郷人に搾取されても同郷人だからとめったに行政に訴えない。だから低賃金と劣悪な労働環境は続いた。だが中国国内の賃金が高くなると、温州市出身の低賃金労働者は減った。代わりにアフリカからの労働者が増えはじめた。これは縫製工場があるプラトでなく、サンタクローチェのなめし工場でも起こっていたことだ。だがなめし工場の場合は深刻な事故を引き起こすこともある。

 あるNGOの2000年代のレポートによると、雇用者にとって便利な間接雇用の派遣労働者を使い、たとえ事故が起こっても多くの覇権労働者は工場主からの保障を受けることができない。同じ仕事をしているのに、直接雇用のイタリア人労働者より賃金が安いという不満も聞かれた。仕事の研修を受けないままに危険な労務作業をさせられることもある。技術が高くなっても労賃は上げてもらえない。あるセネガル人労働者によると、一〇年間もの間働いてようやくレベル2から3の職制にあげてもらい、時給もちょっとだけ増えたが、それでも現地のイタリア人労働者より少ない。イタリア人の労働者のほうがはるかに難度の低い作業をしている場合であってもだ。景気が悪くなると真っ先に切られるのは間接雇用の外国人労働者だし、失業保険もない。年金をもらう資格を得られずに多くの外国人労働者はイタリアを去る。このあたりは日本のブラック企業とよく似通っているのだが、労働者を搾取したり、人体に害のある薬品を使うことはブランディングに不可欠な倫理性に反する商品をつくることになる。この上ないダメージをブランドにも与えることになる。

21世紀の産業倫理としてのSDGs

2015年に国連サミットはSDGs(Sustainable Development Goals,継続可能な開発目標)として17の目標を2015年から2030年の15年間で達成すべき目標として掲げた。途上国の貧困対策だけでなく、気候変動への対処、海洋や陸地の保全などの自然への対策だけでなく人々の働き方や生きがいづくりなど開発途上国と先進工業国の両方を巻き込んだ包括的なサステナビリティをつくる目標設定だ。このSDGsにもとづいて形成されてきたのが先進国の産業界におけるさまざまなサステナビリティへの取り組み目標とその目標をどれだけクリアーしているかを測る指標の開発だ。英国の皮革業界が主導でLWGという非営利団体が2005年に設立され、後を追ってイタリアはブラジルと提携してICECを、ドイツはECO2Lという独自基準をつくりだした。

 これらは皮革製品を販売する有名ブランド、小売業者 、皮革を製造するメーカー(タナー) 、皮革の加工品や完成品を扱う業者 、革製の衣料品、靴、家具のメーカー 、化学薬品、機械、検査用品の販売業者、皮革産業内および関連団体などが集う包括的な皮革をめぐるサステナビリティに関心を示す産業グループだ。それぞれの産業セクターでは目標最終年である2030年に向けて目標達成への動きを加速しているようにみえる。皮革産業も他の産業に後れをとってはならない。そういったあせりもあるかもしれない。

 これらの評価組織のメンバーになれば、経営内容の健全さ、従業員の労働環境、労働条件、工場の適切な排水処理による廃棄物のリサイクル率や工場運営の適切さなど細かく査定され、企業と製品そのものがこれらの基準によって認証を受ける。それがブランディングの核のひとつとなる。これまで先進国の市場に野放図にはいっていた途上国からの製品の多くは当然ブロックされる。グローバル企業が労働搾取や環境汚染を引き起こしながら作っているものはこのガイドラインによってブランドとして生き残ることができなくなる。また、たとえ開発途上国の企業であっても、同じ理由から、労働搾取を行って作った製品は先進国から拒否されることになる。それは同時に先進国がグループ化し、「エリートクラブ」をつくることに他ならないかもしれない。「先進国家」の産業を守るために設ける巧妙な壁のひとつとして機能することにもなるだろう。関税障壁よりもはるかに巧妙に先進国の利害を守ることになるかもしれない。21世紀にはいり、「ぜいたく品」「ブランド品」についての私たちの規範は大幅に変更されつつある。この動きは次第に国家を超えた「先進国企業群」を構成するブロックと、非倫理的な商慣習が支配する「途上国群」との大きな二分割化をつくりあげてゆくのかもしれない。無論、途上国からでもこの基準を満たす優良企業は歓迎され、先進国でもこのスタンダードを守らなければエリートクラブのブロックのなかでは売ることができないものになる。そんな近未来が迫っているような気がするのだ。

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